最終更新日:2022年10月25日

自然災害伝承碑の取組(中部地測)

自然災害伝承碑のウェブ地図「地理院地図」での掲載を進めています

 国土地理院では、新たな地図記号「自然災害伝承碑」を制定し、ウェブ地図サービス「地理院地図」や2万5千分1地形図に掲載する取組を行っています。
 中部地方測量部においても、中部管内(岐阜、静岡、愛知、三重の4県)の自然災害伝承碑の掲載を進めています。このページでは、これらの伝承碑の一部について紹介しています。
 なお、自然災害伝承碑のうち、伊勢湾台風に関する自然災害伝承碑については、特設ページ「伊勢湾台風に関する自然災害伝承碑を紹介するウェブページ」を、伊勢湾台風が襲来してから60年となる令和元年9月から公開しています。
 中部地方測量部では、今後も地元市町村の協力を得ながら、自然災害伝承碑の掲載を進めてまいります。

伊勢湾台風関連の自然災害伝承碑

 伊勢湾北部沿岸地域には、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風に関する自然災害伝承碑が多く存在しています。伊勢湾台風60年に当たり、これらを紹介する特設ページを公開しています。このページでは、愛知県名古屋市(10基)、刈谷市(1基)、弥富市(5基)、飛島村(1基)、三重県桑名市(11基)、木曽岬町(1基)にある伊勢湾台風に関する自然災害伝承碑の名称、建立年、碑文等の内容を紹介しています。ぜひ、ご覧ください。
 伊勢湾台風関連の自然災害伝承碑(https://www.gsi.go.jp/chubu/denshouhi_isewan.html伊勢湾台風関連の自然災害伝承碑

新着情報:令和2年11月から令和3年1月に追加掲載した碑(静岡県静岡市、愛知県豊田市、新城市ほか)

 静岡県静岡市、愛知県豊田市、新城市の各市から新たに申請をいただき、令和3年1月15日に計11基の自然災害伝承碑を追加掲載しました。また、令和2年12月16日には岐阜県瑞浪市、静岡県伊豆市、三重県大紀町、南伊勢町、紀北町の碑を、令和2年11月12日には三重県尾鷲市、鳥羽市、志摩市の碑を掲載しています。ここでは、これらの地域にある自然災害伝承碑を紹介しています。
 
  • 昭和27年(1952年)6月23日のダイナ台風による災害が発生し、その復旧の最中には、昭和33年(1958年)7月23日の台風11号、さらに昭和34年(1959年)8月14日の台風7号にも襲われました。「災害復旧記念碑」は、これらの災害から復旧した記念に1964年に設置されました。
  • 「災害復旧中河内川記念碑」のあるこの地域では、昭和54年(1979年)10月19日の台風20号により集中豪雨が発生し、川は氾濫し、興津川支川の中河内川では家屋43棟が被害を受けました。
  • 急流河川の安倍川は、大雨により洪水・氾濫被害が発生しやすく、安政2年6月30日(1855年8月12日)の大洪水では、「有功堤碑」のあるこの地の堤防が決壊し、流域に多大な被害を与えました。明治7年(1874年)堤防を復旧して以来、一度も水害がなくなりました。
「災害復旧記念碑」(静岡県静岡市) 「災害復旧中河内川記念碑」(静岡県静岡市) 「有功堤碑」(静岡県静岡市)
「災害復旧記念碑」(静岡県静岡市) 「災害復旧中河内川記念碑」(静岡県静岡市) 「有功堤碑」(静岡県静岡市)
 
  • 大正3年(1914年)8月29日午後、台風の影響により安倍川堤防が安西五丁目で決壊し、浸水は安西一帯・番町・寺町・新通・宮ヶ崎・馬場町・呉服町・研屋町・栄町・梅屋町・人宿町に及びました。約1,000戸が流失、約10,000戸が浸水し、死者45人、負傷者90人の被害が生じました。「安倍川修堤碑」は、堤防の修復を記念して1924年に設置されました。
  • 昭和41年(1966年)9月の台風26号による豪雨では、静岡県全域で被害が発生し、特に静岡県中部では大きな被害が生じました。9月25日0時頃には安倍川で土石流が発生し、「慰霊碑」が建立されている梅ヶ島温泉街では、家屋全壊9戸、半壊2戸、死者26名の被害となりました。
  • 昭和49年(1974年)7月7日、七夕豪雨と呼ばれる台風8号の被害が静岡県全域で発生しました。旧静岡市と旧清水市では、死者24人、床上浸水16,197戸、床下浸水24,339戸もの被害を受けました。「七夕災害慰霊碑」は、この七夕豪雨で被害を受けた方々を慰霊するため、1977年に建立されました。
「安倍川修堤碑」(静岡県静岡市) 「慰霊碑」(静岡県静岡市) 「七夕災害慰霊碑」(静岡県静岡市)
「安倍川修堤碑」(静岡県静岡市) 「慰霊碑」(静岡県静岡市) 「七夕災害慰霊碑」(静岡県静岡市)
 
  • 安倍川上流域は、昭和41年9月、昭和57年8月など、山腹崩壊による多くの土砂災害が発生しています。特に昭和41年(1966年)9月25日には、台風26号による豪雨のため安倍川で発生した土石流が梅ヶ島温泉街で氾濫し、家屋全壊9戸、半壊2戸、死者26名の被害となりました。「建設省安倍川砂防五十周年記念碑」には、この災害の状況が記されています。
  • 昭和57年(1982年)8月2日、台風10号により日雨量400mm程度の豪雨となり、橋の流失などで道路が寸断し、数日間にわたり梅ヶ島地区、井川地区が孤立しました。「有東木沢災害復興之碑」のある有東木沢は濁流となり、茶畑やわさび田が押し流され、道路・橋梁が破壊される被害となりました。
「建設省安倍川砂防五十周年記念碑」(静岡県静岡市) 「有東木沢災害復興之碑」(静岡県静岡市)
「建設省安倍川砂防五十周年記念碑」(静岡県静岡市) 「有東木沢災害復興之碑」(静岡県静岡市)
 
  • 昭和47年(1972年)7月12日夜半から13日未明にかけての梅雨前線による集中豪雨で、大規模な土砂崩れと土石流が発生しました。旧小原村では、死者は32名、住家全壊127棟等の被害が生じました。「昭和47.7集中豪雨 災害復興記念碑」は、旧小原村の犠牲者慰霊碑(1973年建立)に隣接して建てられています。
  • 風化花崗岩地帯を流れる白川流域は、流域の崩壊地から洪水のたびごとに多量の土砂が流出し、下流に被害をもたらしてきました。特に、昭和47年(1972年)7月の豪雨で発生した土石流では、木瀬地区で12名が亡くなりました。「砂防の碑」は、白川砂防ダムの完成を記念して建立されました。
  • 明治37年(1904年)7月10日、20日間ほど降り続いた雨により、鞍掛山と通称「びんぼう山」の谷間に泥土が溜まり、雨水があふれて土石流が発生しました。棚田は流失し、家屋10戸が全半壊して11名の死者が出ました。「山崩遭難供養塔」は、1956年に建立されました。
「昭和47.7集中豪雨 災害復興記念碑」(愛知県豊田市) 「砂防の碑」(愛知県豊田市) 「山崩遭難供養塔」(愛知県新城市)
「昭和47.7集中豪雨 災害復興記念碑」(愛知県豊田市) 「砂防の碑」(愛知県豊田市) 「山崩遭難供養塔」(愛知県新城市)
 
  • 昭和47年(1972年)7月12日夜半から13日未明に、総雨量266.5mmを記録した集中豪雨が発生し、瑞浪市を流れる小里川の流域で氾濫が発生し、瑞浪市内で6名が死亡しました。「小里川災害復旧之碑」には、この災害の状況が記されています。
  • この集中豪雨では、瑞浪市の大川盆地で死者5名、住家全壊4戸、半壊4戸、田畑流失2.5ヘクタールなどの被害をもたらしました。「災害記念碑」に隣接して、この災害で殉職した消防団員の殉職之碑が建立されています。
「小里川災害復旧之碑」(岐阜県瑞浪市) 「災害記念碑」(岐阜県瑞浪市)
「小里川災害復旧之碑」(岐阜県瑞浪市) 「災害記念碑」(岐阜県瑞浪市)
 
  • 昭和33年(1958年)9月26日に台風22号(狩野川台風)が伊豆半島の南端を通過し、旧修善寺町では土石流、がけ崩れ、洪水氾濫により、一夜にして死者469名、家屋の流失256戸などの被害が発生しました。「狩野川台風復興記念碑」は、伊豆市の狩野川記念公園内に設置されています。
  • また、狩野川記念公園には、「狩野川台風殉難者慰霊碑」も設置されています。狩野川台風では、修善寺橋で川の水が土砂や倒木でせき止められ、橋の上流側は湖となりました。また、同日の午後9時50分頃には橋が陥没し、濁流が下流の熊坂地区を襲い、291名が犠牲になりました。
「狩野川台風復興記念碑」(静岡県伊豆市) 「狩野川台風殉難者慰霊碑」(静岡県伊豆市)
「狩野川台風復興記念碑」(静岡県伊豆市) 「狩野川台風殉難者慰霊碑」(静岡県伊豆市)
 
  • 嘉永7(1854年)年11月4日(1854年12月23日)に大地震(安政東海地震)が発生し、すぐに6m余りの津波が来襲しました。大紀町の金蔵寺にある「津波流死塔」には、今後、大地震があれば、火事と津波に心得るべきと記されています。
  • 昭和19年(1944年)12月7日に発生した昭和東南海地震による津波で、旧紀勢町では、死者64人、流失家屋447戸、半壊・浸水家屋235戸等の被害が発生しました。史実を語り伝えるため、被害から45年目に子供の像に夢を託して「平安の碑」が建立されました。
  • 昭和東南海地震では、10数分後から十数分間隔で津波が襲来し、家屋の大半が流出しました。この津波で、旧紀勢町では64名が死亡しました。「大津波供養碑」は、この地震、津波で亡くなった方を供養するために建立されました。
「津波流死塔」(三重県大紀町) 「平安の碑」(三重県大紀町) 「大津波供養碑」(三重県大紀町)
「津波流死塔」(三重県大紀町) 「平安の碑」(三重県大紀町) 「大津波供養碑」(三重県大紀町)
 
  • 昭和19年(1944年)12月7日に発生した遠州灘沖を震源とする昭和東南海地震では、旧紀勢町を最大波高は6m近くの津波が襲来しました。「大津波潮位指標」は、その津波の高さを示す碑です。
  • 大紀町の金蔵寺にある「大震肅災記念碑」には、昭和東南海地震で発生した高さ5mを超える津波がこの地区に午後1時52分に到達し、死者64名、家屋の倒壊・流失447戸、半壊65戸、浸水170戸等の被害が発生したことが記されています。
  • 昭和東南海地震による津波で、旧紀勢町では死者64名、家屋流失447戸、半壊235戸等の被害が発生しました。「鎮魂之碑」は、この大災害を後世に語り継ぐため、約半世紀後に建立されたものです。
「大津波潮位指標」(三重県大紀町) 「大震肅災記念碑」(三重県大紀町) 「鎮魂之碑」(三重県大紀町)
「大津波潮位指標」(三重県大紀町) 「大震肅災記念碑」(三重県大紀町) 「鎮魂之碑」(三重県大紀町)
 
  • 宝永4年10月4日(1707年10月28日)に発生した宝永地震では、南伊勢町古和浦地区を約9mの津波が襲い、波を受けた民家は一棟も残らず流され、約80人が死亡しました。「三界萬霊」は、もし今後このような地震が起きたならば、屋上より高い山に登り、決して退いてはならないと警告しています。
  • 「津波供養寳塔」のある南伊勢町古和浦地区では、昭和19年(1944年)12月7日に発生した昭和東南海地震による津波で、死者23名、家屋の流失121戸、倒壊41戸等の被害が発生しました。
  • 昭和東南海地震による津波で、南伊勢町神前浦地区では大きな被害を受けました。「津波海難者慰霊碑」は、この津波と、これまでに海上で亡くなった方々の慰霊と共に子孫のための警告として建立されたものです。
「三界萬霊」(三重県南伊勢町) 「津波供養寳塔」(三重県南伊勢町) 「津波海難者慰霊碑」(三重県南伊勢町)
「三界萬霊」(三重県南伊勢町) 「津波供養寳塔」(三重県南伊勢町) 「津波海難者慰霊碑」(三重県南伊勢町)
 
  • 南伊勢町贄浦の最明寺にある「供養塔(津波供養塔)」には、宝永4年10月4日(1707年10月28日)の宝永地震による津波で、当時の村人死者60人余の被害があったこと、また、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震による津波で、死者3人、流失家屋60余戸等の被害が発生したことが記されています。
  • 宝永4年(1707年)の宝永地震による津波では、この地域の家屋が残らず流失し、死者60名の被害が発生しました。「大乗経(津波供養塔)」には、この碑まで津波が達したことや、地震のあとには必ず津波がくることが記されています。
「供養塔(津波供養塔)」(三重県南伊勢町) 「大乗経(津波供養塔)」(三重県南伊勢町)
「供養塔(津波供養塔)」(三重県南伊勢町) 「大乗経(津波供養塔)」(三重県南伊勢町)
 
  • 紀北町長島の佛光寺には「津波流死塔(宝永4年)」があります。宝永4年10月4日(1707年10月28日)の宝永地震による津波では、500余名が流されて死亡しました。今後、大地震の時には覚悟しておくように、警告しています。
  • 昭和19年(1944年)に発生した昭和東南海地震により、紀北町三浦地区では、十数分後に津波が襲来しました。鉄道線路以南は泥海となり、引き波により死者2名、流失家屋66戸の被害が発生しました。「津浪之碑(三浦津波碑)」の左側には、新たに解説碑が設置されています。
  • 嘉永7年11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震で発生した津波が海辺の浦や村に襲来し、人家や人を流しました。「奉石書佛経宝塔」には、津波襲来のとき、山に逃れた人は死を免れたことや、末代までよく心得ておくことが記載されています。
「津波流死塔(宝永4年)」(三重県紀北町) 「津浪之碑(三浦津波碑)」(三重県紀北町) 「奉石書佛経宝塔」(三重県紀北町)
「津波流死塔(宝永4年)」(三重県紀北町) 「津浪之碑(三浦津波碑)」(三重県紀北町) 「奉石書佛経宝塔」(三重県紀北町)
 
  • 嘉永7年6月14日(旧暦)に大地震(安政伊賀地震)があり、さらに同年11月4日(1854年12月23日)朝にも大地震(安政東海地震)があって、直ぐに津波が襲来しました。「津波の碑」には、宝永4年10月4日(1707年10月28日)にも同様の地震と津波があったこと、同様の地震が来れば寺に逃げるように記載されています。
  • 嘉永7年年11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震による津波では、死者23名、流失家屋480棟余りの被害が発生しました。「津波流死塔(嘉永7年)」には、「津波流死塔(宝永4年)」と同様に、大地震の時には覚悟しておくことが記されています。
「津波の碑」(三重県紀北町) 「津波流死塔(嘉永7年)」(三重県紀北町)
「津波の碑」(三重県紀北町) 「津波流死塔(嘉永7年)」(三重県紀北町)
 
  • 尾鷲市北浦町にある「宝永津波供養碑(馬越墓地の三界萬霊碑)」は、宝永4年10月4日(1707年10月28日)に発生した宝永地震による津波で、1000人余りが亡くなった惨状が記されています。
  • 昭和19年(1944年)12月7日に熊野灘沖合で発生した東南海地震による津波で、尾鷲市賀田地区は、高さ9mの津波に見舞われました。この地区にある「東南海地震都市計画完成記念の碑」の土台には「これより3.0m上が津波水位高」と記されています。
  • 尾鷲市賀田町の東禅寺には「遭難之碑」があります。昭和19年の東南海地震により、地震後20分で6mの津波が来襲しました。山門裏には、この地方の主な津波被害・山津波の記録も残されています。
「宝永津波供養碑(馬越墓地の三界萬霊碑)」(三重県尾鷲市) 「東南海地震都市計画完成記念の碑」(三重県尾鷲市) 「遭難之碑」(三重県尾鷲市)
「宝永津波供養碑(馬越墓地の三界萬霊碑)」(三重県尾鷲市) 「東南海地震都市計画完成記念の碑」(三重県尾鷲市) 「遭難之碑」(三重県尾鷲市)
 
  • 尾鷲市賀田町の東禅寺には、もう1つ別の「遭難之碑」があります。昭和46年(1971年)9月10日午後4時頃、三重県南部集中豪雨により各所で山腹崩壊による土石流が発生し、死者13名、流失家屋26戸の被害となりました。
  • 尾鷲市賀田町にある「安政津浪潮位点」は、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震で発生した津波の到達地点を示します。賀田町ではこの津波で死者、家屋の流失などの被害が発生しました。
「遭難之碑」(三重県尾鷲市) 「安政津浪潮位点」(三重県尾鷲市)
「遭難之碑」(三重県尾鷲市) 「安政津浪潮位点」(三重県尾鷲市)
 
  • 鳥羽市浦村町今浦にある「大津浪塩先地」は、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)、安政東海地震により発生した津波が到達した地点を示しています。集落の多くの家屋が津波により流失しました。
  • 安政東海地震により発生した津波は、山のような白波となり、山腹に衝突し、清岩庵境内まで襲来しました。鳥羽市浦村町本浦の「津波の碑」には、地震の後には必ず津波が起こることが記されています。
  • 安政東海地震で旧国崎村は、15m以上もある津波に襲われ、死者6名、家屋4戸や船・網が流失する等の被害が発生しました。鳥羽市国崎町の常福寺にある「津波流失塔」は、これを記してあります。
「大津浪塩先地」(三重県鳥羽市) 「津波の碑」(三重県鳥羽市) 「津波流失塔」(三重県鳥羽市)
「大津浪塩先地」(三重県鳥羽市) 「津波の碑」(三重県鳥羽市) 「津波流失塔」(三重県鳥羽市)
 
  • 嘉永7年11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震では、高さ十数mの津波が計4回押し寄せ、死者11名、流失家屋141戸等の被害が発生しました。志摩市阿児町甲賀の妙音寺にある「地震津浪遺戒」には、地震の際は、火を消し老人と幼子を連れて高いところに避難するよう教訓が記されています。
  • 志摩市志摩町越賀の大蔵寺には、「津浪流倒記」があります。安政東海地震では、海底が見えるほど潮が引いた後に、高さ約9mの大津波に襲われ、死者3名、流失家屋21戸、流失船舶41等の被害が発生しました。地震のあとは火を消し、老人子供は勿論、食料を持って早々に高所へ逃げること等の教訓が記されています。
「地震津浪遺戒」(三重県志摩市) 「津浪流倒記」(三重県志摩市)
「地震津浪遺戒」(三重県志摩市) 「津浪流倒記」(三重県志摩市)
 

その他、掲載中の碑

 伊勢湾台風関連の碑は、別の特集ページ「伊勢湾台風関連の自然災害伝承碑(https://www.gsi.go.jp/chubu/denshouhi_isewan.html)をご覧ください。
  • 「天心白菊の塔」は、昭和43年(1968年)8月17日~18日に発生した集中豪雨により発生した土石流により、白川町の国道41号において2台の観光バスが飛騨川に転落し、乗員乗客104名が犠牲となった「飛騨川バス転落事故」の犠牲者を慰霊するために設置された碑です。令和4年(2022)8月、道路改良工事に伴い約9km上流の複合型拠点施設敷地内に移転されました。
  • 「激甚災害対策特別緊急事業完成記念碑」は、昭和57年(1982年)9月12日に焼津市を直撃した台風18号により、焼津市内の瀬戸川右岸が決壊し、2,800戸が浸水する甚大な被害を受けたことを示す碑です。
  • 「今福堤防決壊の碑」は、明治29年(1896年)の7月と9月の2回にわたって洪水により破堤した場所を示す碑です。この破堤により、大垣市の広い地域が浸水しました。
  • 「明治29年大洪水点」は、大垣城内にある碑で、明治29年(1896年)の大水害で浸水したことを示す碑です。
「天心白菊の塔」(岐阜県白川町)の写真 「激甚災害対策特別緊急事業完成記念碑」(静岡県焼津市)の写真 「今福堤防決壊の碑」(岐阜県大垣市)の写真 「明治29年大洪水点」(岐阜県大垣市)の写真
「天心白菊の塔」(岐阜県白川町) 「激甚災害対策特別緊急事業完成記念碑」(静岡県焼津市) 「今福堤防決壊の碑」(岐阜県大垣市) 「明治29年大洪水点」(岐阜県大垣市)
  • 安政元年11月4日(1854年12月23日)に発生した安政東海地震により、駿河国大岡村(現沼津市大岡南小林)で土地が陥没し、住家12戸が埋没しました。「震災追弔の碑」は、ここで亡くなった9名を慰霊する碑です。
  • 昭和49年(1974年)7月8日未明、通称七夕豪雨により沼津市獅子浜地区の住宅の裏山(上の山)で土砂崩れが発生し、住宅3棟が全壊、4名が亡くなりました。「七夕豪雨慰霊の碑」は、その犠牲者を慰霊するために設置された碑です。
  • 「妙法 横難死亡供養 霊塔」は、沼津市内浦長浜の住本寺の参道にある碑です。寛延4年(1751年)6月26日に伊豆地方を襲った豪雨により、住本寺の裏山が崩れ、住職や村人32名が犠牲となりました。
  • 「洪水紀念表」は、寛政3年(1791年)8月、安政6年7月25日(1859年)、明治23年(1890年)8月23日、明治40年(1907年)8月24日に発生した大水害の状況を記録する碑です。碑は元は狩野川の水際にあったもので、左右には目盛りが刻まれています。
「震災追弔の碑」(静岡県沼津市)の写真 「七夕豪雨慰霊の碑」(静岡県沼津市)の写真 「妙法 横難死亡供養 霊塔」(静岡県沼津市)の写真 「洪水紀念表」(静岡県沼津市)の写真
「震災追弔の碑」(静岡県沼津市) 「七夕豪雨慰霊の碑」(静岡県沼津市) 「妙法 横難死亡供養 霊塔」(静岡県沼津市) 「洪水紀念表」(静岡県沼津市)
  • 「昭和十三年戌寅年大洪水記念之碑」は、昭和13年(1938年)6月29日、台風による大雨によって戸田村戸田地区(現沼津市戸田)の大川の堤防が決壊し、多数の家屋が浸水し、水田約65haが冠水したことが記録されている碑です。
  • 「昭和十三年十六年大水害復旧記念碑」は、昭和13年(1938年)及び昭和16年(1941年)に戸田村戸田地区(現沼津市戸田)で発生した水害からの復旧を記念して設置された碑です。
  • 昭和36年(1961年)6月28日、梅雨前線による集中豪雨で戸田村戸田地区(現沼津市戸田)の大川が氾濫し、当時の村約半分の世帯が浸水しました。「災害復興記念碑」は、その水害からの復旧記念碑です。
 なお、「昭和十三年戌寅年大洪水記念之碑」「昭和十三年十六年大水害復旧記念碑」「災害復興記念碑」の3つの碑は、同じ場所に並んで設置されています。
「昭和十三年戌寅年大洪水記念之碑」(静岡県沼津市)の写真 「昭和十三年十六年大水害復旧記念碑」(静岡県沼津市)の写真 「災害復興記念碑」(静岡県沼津市)の写真
「昭和十三年戌寅年大洪水記念之碑」(静岡県沼津市) 「昭和十三年十六年大水害復旧記念碑」(静岡県沼津市) 「災害復興記念碑」(静岡県沼津市)
  • 昭和20年(1945年)1月13日未明に発生した三河地震により、和泉区内では400余戸のうち300余戸が倒壊し、83名が亡くなりました。当時は太平洋戦争の最中であり、空爆のため火葬することができませんでした。「震災死歿者精霊碑」は、その犠牲者を埋葬した場所に設置されています。
  • 昭和20年(1945年)1月13日の三河地震では、山新田組60数余戸の家屋はほとんどが倒壊し、26名の尊い遭難者を出しました。「震災遭難之碑」には「遭難者の尊い犠牲に依り今日迄生を長えた事に関し深く感謝して遭難者の霊を慰める可く」と記されています。
  • 昭和19年(1944年)12月7日の昭和東南海地震では、住宅全壊89戸、死者1名の被害が生じ、また、翌20年(1945年)1月13日の三河地震では、住宅全半壊521戸、死者155名に達しました。「震災記念碑」は、その状況が記されています。
  • 「三河地震追憶之碑」は、昭和20年(1945年)1月13日未明に発生した三河地震により、藤井住民の尊い生命財産を奪い、住宅全半壊176棟、死者77名を出した状況が記されています。
「震災死歿者精霊碑」(愛知県安城市)の写真 「震災遭難之碑」(愛知県安城市)の写真 「震災記念碑」(愛知県安城市)の写真 「三河地震追憶之碑」(愛知県安城市)の写真
「震災死歿者精霊碑」(愛知県安城市) 「震災遭難之碑」(愛知県安城市) 「震災記念碑」(愛知県安城市) 「三河地震追憶之碑」(愛知県安城市)
  • 熊野市甫母(ほぼ)町にある「東南海大地震津波到達地点」は、昭和19年(1944年)12月7日に発生した東南海地震による熊野市甫母町の津波到達地点を示す碑で、昭和55年(1980年)の防災の日に建立されました。甫母ではこの津波で家屋の床上浸水12戸の被害が発生しました。
  • 熊野市二木島里町の町民会館裏には、東南海地震による津波到達地点を示す碑「東南海大地震津波到達地点」が設置されています。この津波で、二木島湾内では7.1mの波高が測定され、死者5名、流失家屋18戸等の被害が発生しました。
  • 嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した安政東海地震による津波は、熊野市二木島湾内では波高が10mを超え、民家が高台の28軒のみ残して壊滅する被害が発生しました。「二木島の津浪地蔵」は地蔵を模した自然石で、津波到達地点に建てられています。
  • 東南海地震の大津波が旧荒坂村を襲いましたが、下校しようとしていた荒坂国民学校の児童生徒のもとに町民数名が駆けつけ、直ちに高台へ避難させました。熊野市二木島町にある「二木島の津波の碑」には、「津波が来る 子どもを逃がせ」の文字が刻まれています。碑のすぐ横には津波到達地点を示す碑があります。
「東南海大地震津波到達地点」(1)(三重県熊野市)の写真 「東南海大地震津波到達地点」(2)(三重県熊野市)の写真 「二木島の津浪地蔵」(三重県熊野市)の写真 「二木島の津波の碑」(三重県熊野市)の写真
「東南海大地震津波到達地点」(三重県熊野市) 「東南海大地震津波到達地点」(三重県熊野市) 「二木島の津浪地蔵」(三重県熊野市) 「二木島の津波の碑」(三重県熊野市)
  • 熊野市二木島町の消防団荒坂分団倉庫前にある「東南海大地震の記」には、昭和19年(1944年)12月7日午後1時35分に熊野灘海底を震源とする昭和東南海地震が発生し、津波がおしよせたことが記されています。
  • この「東南海大地震津波到達地点」も、熊野市二木島町にある碑で、東南海地震による津波到達地点を示すものです。昭和55年(1980年)の防災の日に建立されました。
  • 宝永4年10月4日(1707年10月28日)の大地震・津波以来150年経って、嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に安政東海地震が発生し、津波が約5m上がりました。「遊木の津浪供養碑」には、今後、大地震の時には津波があると考え、最初は平地に出て、揺れおわりしだい高い所に逃げることが記されています。
  • 熊野市遊木町にある「東南海大地震津波到達地点」は、昭和19年(1944年)の東南海地震による熊野市遊木町の遊木川沿いの津波到達地点を示す碑です。この津波で、遊木では床上浸水80戸の被害が発生しました。
「東南海大地震の記」(三重県熊野市)の写真 「東南海大地震津波到達地点」(3)(三重県熊野市)の写真 「遊木の津浪供養碑」(三重県熊野市)の写真 「東南海大地震津波到達地点」(4)(三重県熊野市)の写真
「東南海大地震の記」(三重県熊野市) 「東南海大地震津波到達地点」(三重県熊野市) 「遊木の津浪供養碑」(三重県熊野市) 「東南海大地震津波到達地点」(三重県熊野市)
  • 「東南海大地震津波到達地点」は、昭和19年(1944)12月7日に発生した東南海地震による熊野市新鹿(あたしか)町の湊川沿いの津波到達地点を示す碑で、昭和56年(1981)の防災の日に建立されました。
  • 昭和19年(1944年)12月7日午後1時35分に発生した熊野灘を震源とする昭和東南海地震により津波がおしよせました。「東南海大地震の記」には被害の様子が記されています。
  • 嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した安政東海地震による津波で、新鹿(あたしか)では家屋が多数流され、多くの死者が出ました。高さ約9mの津波が里川を遡上し、「津浪留」まで押し寄せました。
  • 「東南海大地震津波到達地点」は、東南海地震による熊野市新鹿(あたしか)町の里川沿いの津波到達地点を示す碑です。新鹿では死者行方不明者16名、家屋の流失倒壊151戸等の被害が発生しました。
「東南海大地震津波到達地点」(5)(三重県熊野市)の写真 「東南海大地震の記」(三重県熊野市)の写真 「津浪留」(三重県熊野市)の写真 「東南海大地震津波到達地点」(6)(三重県熊野市)の写真
「東南海大地震津波到達地点」(三重県熊野市) 「東南海大地震の記」(三重県熊野市) 「津浪留」(三重県熊野市) 「東南海大地震津波到達地点」(三重県熊野市)
  • 「津浪の記」には、「大地震の時は先ず海に耳目を向けてください くれぐれも」と刻まれています。すぐ横には平成4年(1992年)に建立された津波の水位を示す碑があります。
  • 宝永4年10月4日(1707年10月28日)に発生したM8.4(推定)の宝永地震により津波が押し寄せ、午後10時にこの「宝永地震津浪の記」の碑のある場所の下部の溝まで到達しました。この津波で新鹿では24名が亡くなりました。
  • 「東南海大地震津波到達地点」は、東南海地震による熊野市磯崎町磯崎漁港南側の津波到達地点を示す碑です。熊野灘沿岸では、地震発生後10~20分後に津波の第一波が到達し、大部分の区域で波高が5~6m、部分的には10mに達しました。
  • 昭和19年(1944年)の東南海地震による熊野市大泊町の津波到達地点を示す「東南海大地震津波到達地点」は、昭和56年(1981年)の防災の日に建立されました。大泊町では家屋27戸が浸水し、大泊橋が流失しました。
「津浪の記」(三重県熊野市)の写真 「宝永地震津浪の記」(三重県熊野市)の写真 「東南海大地震津波到達地点」(7)(三重県熊野市)の写真 「東南海大地震津波到達地点」(8)(三重県熊野市)の写真
「津浪の記」(三重県熊野市) 「宝永地震津浪の記」(三重県熊野市) 「東南海大地震津波到達地点」(三重県熊野市) 「東南海大地震津波到達地点」(三重県熊野市)
  • 平成23年(2011年)9月の台風12号による紀伊半島豪雨(紀伊半島大水害)では、熊野市では幸いにも死者は出なかったものの、多くの民家が浸水し、地域住民が避難生活を余儀なくされました。熊野市紀和町小船にある「平成23年9月台風12号浸水地点」には、当時の浸水深を示す矢印が記されています。
  • 熊野市紀和町和気にある「平成23年9月台風12号浸水地点」も、平成23年(2011年)9月の台風12号による紀伊半島豪雨(紀伊半島大水害)の際の浸水深を示す矢印が記されています。
  • 平成12年(2000年)9月11日から12日にかけて発生した「東海豪雨」により、新川では左岸堤防が決壊し、全半壊88棟、床上浸水5,293棟などの甚大な被害が発生しました。「東海豪雨水害之碑」は、発生翌年の平成13年(2001年)に設置されました。
「平成23年9月台風12号浸水地点」(1)(三重県熊野市)の写真 「平成23年9月台風12号浸水地点」(2)(三重県熊野市)の写真 「東海豪雨水害之碑」(愛知県名古屋市)の写真
「平成23年9月台風12号浸水地点」(三重県熊野市) 「平成23年9月台風12号浸水地点」(三重県熊野市) 「東海豪雨水害之碑」(愛知県名古屋市)
 この他にも中部地区の各地には、東南海地震(昭和19年)、狩野川台風(昭和33年)、伊勢湾台風(昭和34年)など、過去に発生した多くの自然災害に関わる伝承碑が設置されています。自然災害伝承碑の掲載は、地元市町村からの申請に基づいて行われることから、現在中部地方測量部では、中部地方整備局や各県など関係各機関にもご協力をいただきながら、伝承碑が設置されている市町村と調整を続けており、今後も準備が整い次第、順次掲載する予定です。

2万5千分1地形図への反映

 令和元年9月1日から、新たな地図記号「自然災害伝承碑」が掲載された2万5千分1地形図が刊行されています。中部管内では、2万5千分1地形図「河岐」(かわまた)の中に、初めて自然災害伝承碑が記載されました。岐阜県白川町にある「天心白菊の塔」が掲載されています。

自然災害伝承碑の入った地形図のイメージ

市町村のみなさまへ

 国土地理院では、自然災害伝承碑の取組を行っていますが、地図等への伝承碑の掲載は、地元市町村からの申請により行われます。それぞれの市町村に設置されている伝承碑の掲載を希望される地方公共団体の関係者の方は、ぜひお問い合わせください。
 申請にあたっては、申請書類等の必要な書類を準備していただくことになります。詳しくは、国土地理院の「自然災害伝承碑の取組」のページをご覧ください。
 また、中部地方測量部では、この取組を紹介するチラシを作成しております。こちらもご覧ください。申請書類の作成の際は、お手伝いもさせていただきます。中部4県(岐阜、静岡、愛知、三重)の地方公共団体の方で、掲載の申請をされる方、申請をお考えの方は、下記までお問い合わせください。申請方法など、ご不明な点がございましたら、いつでもご相談に応じます。

お問い合わせ先

 中部4県(岐阜、静岡、愛知、三重)の自然災害伝承碑の取組に関するお問い合わせは、国土地理院中部地方測量部防災グループまでお願いします。 メールアドレス:gsi-bosai-05-cb=gxb.mlit.go.jp (=を@にしてください)

参考情報(リンク)