測量・地図ミニ人物伝:玉川兄弟

「測量・地図ミニ人物伝」

 

玉川兄弟

 

画像:玉川兄弟の画像

 

 徳川幕府が永く続き、安定してくると江戸の人口はふえ、水不足が心配になりました。そこで、幕府は玉川兄弟に、多摩川から水道を引くことを命じました。兄弟は、それまでも幕府が行う土木工事などを担当(たんとう)してきましたが、これほどの大きな工事は初めてでした。

 

 水道を作るには、川を掘るという土木の知識が必要なことはもちろんですが、水を流すためには、多摩川と江戸の標高(ひょうこう)がどれほどあるのか、どのくらいの傾斜(けいしゃ)で川を作ればよいのか、どのような方法で傾斜を測るか、といった測量の知識(ちしき)が必要になります。

 

 また、計画を立てるためには地図を作る知識と、地図を読む知識も必要だったに違いありません。兄弟は、測量や地図の勉強をいつどこでしたのでしょうか、良く分かっていません。

 

 多摩川の取り入れ口の高さと江戸の高さの差は、わずか100mほどでしたから、100m進んで、25cmほど下がる正確な川を作らなければなりませんでした。玉川兄弟は、このような正確な測量を夜中にちょうちんや火をつけた線香(せんこう)の束(たば)をともし、それを見とおして行ったといわれています。

 

 こうした測量での苦心(くしん)のほか、土木工事でも何度もこんなんな目に会いましたが、わずか八か月で玉川上水と、そこから江戸の町々に水を引く水道工事を完成させました。兄弟の名前は、玉川庄右衛門、玉川清右衛門です。