火山土地条件図「三宅島」について
Land Condition Map of Miyakejima Volcano
地理調査部
海野芳聖・石川弘美・三浦一彦
Geographical Department
Yoshikiyo UMINO, Hiromi ISHIKAWA, Kazuhiko MIURA
Land Condition Map of Miyakejima Volcano
地理調査部
海野芳聖・石川弘美・三浦一彦
Geographical Department
Yoshikiyo UMINO, Hiromi ISHIKAWA, Kazuhiko MIURA
要旨
平成7年10月1日に刊行された火山土地条件図「三宅島」(1:15000)について,作成後の総括と内容の補足を行った。
本図の作成には,三浦一彦・石川弘美が携わり,現地調査は平成6年7月18 日〜21日,及び10月18日〜27日の合計14日間にわたって実施した。また,平成7年3月15日〜19日に,海野・石川の2名で補足調査を行った。原図の作成と校正には,主に石川・海野があたり,平成6年8月から平成7年8月にかけて作業を行った。
本稿は,火山土地条件図「三宅島」について,図の体裁と凡例の特色・解説の構成上の特徴・地形分類と噴火史に関する新知見と問題点などについて述べたものである。
目 次
主な図
1.火山土地条件図「三宅島」とその特徴
(1)自然地名の補完
(2)海岸の分類
(3)海洋レジャーポイントの表示
(4)地震・津波防災の解説
(5)「三宅島火山防災マップ」の紹介
2.三宅島火山の概要
(1)伊豆諸島の海底地形と三宅島火山の位置
(2)三宅島火山の研究史
(3)三宅島火山の地史と838年神津島の噴火
3.地形分類と噴火編年に関する新知見と問題点
(1)山頂カルデラの地形と溶岩流の認定
(2)村営牧場周辺の有史時代の溶岩流
(3)1940年・1962年噴火地帯の地形区分について
(4)マグマ水蒸気爆発による地形の区分
4.おわりに
引用文献
本図の作成には,三浦一彦・石川弘美が携わり,現地調査は平成6年7月18 日〜21日,及び10月18日〜27日の合計14日間にわたって実施した。また,平成7年3月15日〜19日に,海野・石川の2名で補足調査を行った。原図の作成と校正には,主に石川・海野があたり,平成6年8月から平成7年8月にかけて作業を行った。
本稿は,火山土地条件図「三宅島」について,図の体裁と凡例の特色・解説の構成上の特徴・地形分類と噴火史に関する新知見と問題点などについて述べたものである。
目 次
主な図
1.火山土地条件図「三宅島」とその特徴
(1)自然地名の補完
(2)海岸の分類
(3)海洋レジャーポイントの表示
(4)地震・津波防災の解説
(5)「三宅島火山防災マップ」の紹介
2.三宅島火山の概要
(1)伊豆諸島の海底地形と三宅島火山の位置
(2)三宅島火山の研究史
(3)三宅島火山の地史と838年神津島の噴火
3.地形分類と噴火編年に関する新知見と問題点
(1)山頂カルデラの地形と溶岩流の認定
(2)村営牧場周辺の有史時代の溶岩流
(3)1940年・1962年噴火地帯の地形区分について
(4)マグマ水蒸気爆発による地形の区分
4.おわりに
引用文献
1.火山土地条件図「三宅島」とその特徴
国土地理院では,昭和63年度から全国の主要な活動的火山について実施している火山土地条件調査により,これまでに「桜島」・「十勝岳」・「草津白根山」・「阿蘇山」・「北海道駒ヶ岳」の各火山土地条件図を作成・刊行している。
火山土地条件図シリーズは,空中写真判読と現地調査によって作成した多色刷りの地形分類図の上に,防災関係の公的機関や諸施設の位置を表示したものである。裏面の解説では,火山の形成史・噴火史などについて述べ,自治体などの作成した防災マップの解説と実際の噴火時における留意点などを掲載している。
三宅島火山では,後述のように山頂噴火よりも側噴火の事例が多く,1940年のように住家の点在する地区から噴火した例もあり,1983年の噴火では噴火開始後約2時間たらずで溶岩流が集落へ到達して340棟が焼失した( 写真−1(52k) ・写真−2(91k))。したがって,噴火発生時には,迅速・正確な噴火地点の特定と情報の伝達が急務である。2.5万分の1地形図「三宅島」には,このような目的のために有用な島内の山や谷などの自然地名が絶対的に不足していると思われるので,それらはできるだけ掲載することとした。
三宅島火山は,これまでに刊行された5火山とは異なり島しょであるために,主な産業である水産・観光が海岸と沿海域を中心に展開されている。したがって,海岸の地形を詳しく分類・表現するとともに海洋レジャーの諸施設やポイントを表示する工夫が,火山防災の面からも必要と考えられる。さらに,同様の見地から,津波についても過去の履歴をふまえ,大地震時の具体的な注意を述べることとした。三宅島では村役場により既に火山災害の予測図が作成され,地域住民にも配布されているので,この図を再録して噴火時の具体的な留意事項についても解説した。
以下,火山土地条件図「三宅島」で新たに採用した表示事項について解説する。
(1)自然地名の補完
上述のような目的のために,山名や谷の名称を追加注記した。名称のついている山のほとんどは側噴火によって形成されたスコリア丘であるので,その旨を明示した。また,明瞭な小丘をなしてはいないが,火口跡の凹地が残っているものには,古澪・水溜り・金層などの固有名称がつけられており,小型の火口にはスオウ穴・火ノ穴など「穴」の字のついた名称のものが多い。これらについても,位置の特定できるものについては注記することとした。マグマ水蒸気爆発によって形成されたと考えられる大型の火口については,注記の長くなることを避けるため「爆裂火口」の文字を略した。山名・火口名は,一色(1960)・三宅島ガイドブック作成編集委員会(1993)によっている。島内の河谷には常時流水のあるものはほとんど見られないが,過去に土石流の発生した渓流もあり(三宅村, 1993),噴火発生時にはこれらが溶岩流の流下経路となるため,防災上は重要であると考えられる。このことから,固有名称をもつ渓流については,国土地理院(1981)の1:5000火山基本図と東京都都市計画局(1984)の1:2500東京都地形図により,名称を補入した。
なお,沿岸の岬や岩礁の名称については,現地で見聞した限りでも上記の諸地図に注記されている以外に名前の付けられたものが多数ある。しかし,これらについては,呼称に「ゆらぎ」のあるもの,表記が一通りでないものが多く含まれるため,補入を見合わせた。
三宅島は戦後まで長らく神着・伊豆・伊ヶ谷・阿古・坪田の5村からなり, 1956年に一島一村の体制になってからも,これらは地区名称として使用されている。上述の東京都地形図にはこの地区境界が明示されており,防災面からも有用と考えられるので,地区境界を表示することとした。なお,雄山の標高500m付近より上方の部分は旧来各村共有地となっていた地区で,現在は雄山地区となっている。
以上に述べた地名の呼称については,三宅村から国土地理院に提出された地名調書によってローマ字注記を付記した。調書にないものについては,三宅村総務課にお願いして点検していただいた。
(2)海岸の分類
海岸の現況については,1983年の噴火後に磯部(1985)が詳しく検討している。この報告では,海岸線を海浜堆積物の有無・粒度などによって6区分した調査結果が図示されているので,これを引用し,一部を現地調査の際に点検した。土地条件図上では,1990年10月撮影の空中写真によって,植生を欠き大時化の際に波浪の及ぶと思われる範囲を海岸域とみなして区分・表示した。ただし,新しい時期の溶岩流の原面が直接海に接している部分については,岩石海岸とすべき部分もそれぞれの溶岩流の色に塗色してある。
(3)海洋レジャーポイントの表示
観光のために来島する人々の多くが,釣り・海水浴などの海のレジャーを目的としているものと思われる。このため,海水浴場・釣り場・キャンプ場・スクーバダイビングのポイントについて,東京都島しょ振興公社(1993)の資料をもとに表示した。海水浴場・キャンプ場・ダイビングポイントについては,現地で確認の上それぞれの指定区域の中央にシンボルを付すように心がけた。釣り場については,実際はきわめて多数存在するものであり,本図では主要なものを表示するにとどめた。
(4)地震・津波防災の解説
解説の中に特に地震・津波についての項目を加えた。その理由は,過去の噴火の直後にしばしば激しい群発地震が発生し,1962年の噴火ではこのために住民の島外避難が実施された前例がある(たとえば松田・森本,1962)からである。三宅島では,過去に大震災や大津波の記録がない(宇佐美,1983)ので,時おり近海域で発生する群発地震にさえ留意すればよく,関東沖・東海沖などに将来想定されている巨大地震の際にも,大災害の可能性は少ないものと思われる。しかし,東海地震津波を想定した場合,海底地形の効果で三宅島に津波エネルギーが集中するという解析結果(羽鳥,1993)もあるので,津波についての一般的注意事項を付記した。
(5)「三宅島火山防災マップ」の紹介
三宅村では,将来の噴火災害に備えるため,三宅島火山噴火災害危険区域予測図作成検討委員会(会長:下鶴大輔東京大学名誉教授,調査・制作:国際航業株式会社)に委託して「三宅島火山防災マップ」を作成し,1994年に住民に配布した。この図は,地域住民向けに内容が簡素化されているが,従来の研究成果をふまえてまとめられたもので,地方自治体の取り組みとして先進的なものである。ただし,この図だけでは,噴火に遭遇して自主的な状況判断が必要となった場合に,どのような点に注意して行動をとったらよいかについて,情報が不足するものと考えられる。したがって,これまでの噴火の事例をふまえ,溶岩流下経路としての谷地形,降下スコリア・火山灰の分布を決定する季節的な風向の変化,マグマ水蒸気爆発の危険性,噴火前の火山性地震・微動の継続時間,溶岩の流下速度,噴火の継続時間の一般的傾向などの各項目について,それぞれ説明を加えた。
火山土地条件図シリーズは,空中写真判読と現地調査によって作成した多色刷りの地形分類図の上に,防災関係の公的機関や諸施設の位置を表示したものである。裏面の解説では,火山の形成史・噴火史などについて述べ,自治体などの作成した防災マップの解説と実際の噴火時における留意点などを掲載している。
三宅島火山では,後述のように山頂噴火よりも側噴火の事例が多く,1940年のように住家の点在する地区から噴火した例もあり,1983年の噴火では噴火開始後約2時間たらずで溶岩流が集落へ到達して340棟が焼失した( 写真−1(52k) ・写真−2(91k))。したがって,噴火発生時には,迅速・正確な噴火地点の特定と情報の伝達が急務である。2.5万分の1地形図「三宅島」には,このような目的のために有用な島内の山や谷などの自然地名が絶対的に不足していると思われるので,それらはできるだけ掲載することとした。
三宅島火山は,これまでに刊行された5火山とは異なり島しょであるために,主な産業である水産・観光が海岸と沿海域を中心に展開されている。したがって,海岸の地形を詳しく分類・表現するとともに海洋レジャーの諸施設やポイントを表示する工夫が,火山防災の面からも必要と考えられる。さらに,同様の見地から,津波についても過去の履歴をふまえ,大地震時の具体的な注意を述べることとした。三宅島では村役場により既に火山災害の予測図が作成され,地域住民にも配布されているので,この図を再録して噴火時の具体的な留意事項についても解説した。
以下,火山土地条件図「三宅島」で新たに採用した表示事項について解説する。
(1)自然地名の補完
上述のような目的のために,山名や谷の名称を追加注記した。名称のついている山のほとんどは側噴火によって形成されたスコリア丘であるので,その旨を明示した。また,明瞭な小丘をなしてはいないが,火口跡の凹地が残っているものには,古澪・水溜り・金層などの固有名称がつけられており,小型の火口にはスオウ穴・火ノ穴など「穴」の字のついた名称のものが多い。これらについても,位置の特定できるものについては注記することとした。マグマ水蒸気爆発によって形成されたと考えられる大型の火口については,注記の長くなることを避けるため「爆裂火口」の文字を略した。山名・火口名は,一色(1960)・三宅島ガイドブック作成編集委員会(1993)によっている。島内の河谷には常時流水のあるものはほとんど見られないが,過去に土石流の発生した渓流もあり(三宅村, 1993),噴火発生時にはこれらが溶岩流の流下経路となるため,防災上は重要であると考えられる。このことから,固有名称をもつ渓流については,国土地理院(1981)の1:5000火山基本図と東京都都市計画局(1984)の1:2500東京都地形図により,名称を補入した。
なお,沿岸の岬や岩礁の名称については,現地で見聞した限りでも上記の諸地図に注記されている以外に名前の付けられたものが多数ある。しかし,これらについては,呼称に「ゆらぎ」のあるもの,表記が一通りでないものが多く含まれるため,補入を見合わせた。
三宅島は戦後まで長らく神着・伊豆・伊ヶ谷・阿古・坪田の5村からなり, 1956年に一島一村の体制になってからも,これらは地区名称として使用されている。上述の東京都地形図にはこの地区境界が明示されており,防災面からも有用と考えられるので,地区境界を表示することとした。なお,雄山の標高500m付近より上方の部分は旧来各村共有地となっていた地区で,現在は雄山地区となっている。
以上に述べた地名の呼称については,三宅村から国土地理院に提出された地名調書によってローマ字注記を付記した。調書にないものについては,三宅村総務課にお願いして点検していただいた。
(2)海岸の分類
海岸の現況については,1983年の噴火後に磯部(1985)が詳しく検討している。この報告では,海岸線を海浜堆積物の有無・粒度などによって6区分した調査結果が図示されているので,これを引用し,一部を現地調査の際に点検した。土地条件図上では,1990年10月撮影の空中写真によって,植生を欠き大時化の際に波浪の及ぶと思われる範囲を海岸域とみなして区分・表示した。ただし,新しい時期の溶岩流の原面が直接海に接している部分については,岩石海岸とすべき部分もそれぞれの溶岩流の色に塗色してある。
(3)海洋レジャーポイントの表示
観光のために来島する人々の多くが,釣り・海水浴などの海のレジャーを目的としているものと思われる。このため,海水浴場・釣り場・キャンプ場・スクーバダイビングのポイントについて,東京都島しょ振興公社(1993)の資料をもとに表示した。海水浴場・キャンプ場・ダイビングポイントについては,現地で確認の上それぞれの指定区域の中央にシンボルを付すように心がけた。釣り場については,実際はきわめて多数存在するものであり,本図では主要なものを表示するにとどめた。
(4)地震・津波防災の解説
解説の中に特に地震・津波についての項目を加えた。その理由は,過去の噴火の直後にしばしば激しい群発地震が発生し,1962年の噴火ではこのために住民の島外避難が実施された前例がある(たとえば松田・森本,1962)からである。三宅島では,過去に大震災や大津波の記録がない(宇佐美,1983)ので,時おり近海域で発生する群発地震にさえ留意すればよく,関東沖・東海沖などに将来想定されている巨大地震の際にも,大災害の可能性は少ないものと思われる。しかし,東海地震津波を想定した場合,海底地形の効果で三宅島に津波エネルギーが集中するという解析結果(羽鳥,1993)もあるので,津波についての一般的注意事項を付記した。
(5)「三宅島火山防災マップ」の紹介
三宅村では,将来の噴火災害に備えるため,三宅島火山噴火災害危険区域予測図作成検討委員会(会長:下鶴大輔東京大学名誉教授,調査・制作:国際航業株式会社)に委託して「三宅島火山防災マップ」を作成し,1994年に住民に配布した。この図は,地域住民向けに内容が簡素化されているが,従来の研究成果をふまえてまとめられたもので,地方自治体の取り組みとして先進的なものである。ただし,この図だけでは,噴火に遭遇して自主的な状況判断が必要となった場合に,どのような点に注意して行動をとったらよいかについて,情報が不足するものと考えられる。したがって,これまでの噴火の事例をふまえ,溶岩流下経路としての谷地形,降下スコリア・火山灰の分布を決定する季節的な風向の変化,マグマ水蒸気爆発の危険性,噴火前の火山性地震・微動の継続時間,溶岩の流下速度,噴火の継続時間の一般的傾向などの各項目について,それぞれ説明を加えた。
2.三宅島火山の概要
(1)伊豆諸島の海底地形と三宅島火山の位置
伊豆諸島の周辺の海底地形をみると,伊豆半島から小笠原諸島の西之島・硫黄島に至る海底の高まり:七島−硫黄島海嶺が存在し, 図−1(373k)のように,伊豆諸島をつくる諸火山はこの高まりの上にのっていることがわかる。この海嶺を構成する岩石は,海底地質の資料(一色,1984b;湯浅・一色,1987;高田・湯浅,1990 )などから,新第三紀中新世の湯ヶ島層群もしくは白浜層群に対比される火山岩・火砕岩であろうと考えられている。
伊豆諸島の第四紀火山はこの新第三紀層の上に噴出したもので,大島,利島,鵜渡根島,三宅島,御蔵島,八丈島の西山・東山などの中〜大型の複成火山からなる島々と,新島,神津島に代表される単成火山群からなる島列とに大きく分けられる。各火山(群)の海底部分の実態については情報が充分ではないが,諸資料によって概要をまとめると 表−1(135k)のようになる。新島,式根島,神津 島の3島はほとんどすべて流紋岩からなる火砕丘と溶岩ドームで構成されるのに対し,他の島々は玄武岩〜安山岩の成層火山を主体とし,大半が小型のカルデラを伴っている。
三宅島火山は,七島−硫黄島海嶺が南方へ水深を増す肩の部分に形成されており,基底の水深(海嶺の上面の水深)を400mとみなすと,比高約1200m,直径約17kmのかなり大型の成層火山であることがわかる。大島火山や八丈島の両火山は,基底の水深がさらに浅く,またより古い火山の上にのっている(Nakamura,1964;一色,1959)ことのため,火山自体の大きさは三宅島火山よりむしろ小さい。なお,伊豆七島で最大規模の火山は,表−1のように御蔵島火山であるが,この火山は七島−硫黄島海嶺の鞍部にそびえているため,海面下の部分がきわめて大きいことがわかる。
(2)三宅島火山の研究史
三宅島火山の地質は,一色(1960)によって詳しく踏査され,はじめてその全貌が明らかにされた。その後の研究として重要なものとしては,茅原ほか(1973)による旧期カルデラ(推定直径3km以上,西側部分以外は埋没)の存在の指摘,一色(1984c)による考古資料をふまえた過去約5000年間の層序の検討などがあげられる。考古遺跡の編年と火山活動との対応については,国土庁(1987)の報告に従来の成果がまとめられており,海岸付近で発生した大規模な側噴火の噴出物の多くは,その層位とおよその年代が判明している。この他に,1940年・1962年の両噴火については,地震研究所や気象庁(中央気象台)による詳しい調査報告があり(津屋ほか,1940;津屋,1941;本多ほか,1940 ;松田・森本,1962;気象庁地震課ほか,1963など),1983年の噴火については,多くの研究者による調査結果が日本火山学会誌の特集号としてまとめられている。近世以前の噴火記録については大森(1915)によってはじめてまとめられ,一色(1960)により噴出物や地形との対比がなされた。さらに宮崎(1984)は史料の再検討を含め各噴火の特徴や共通性について議論している。なお,各噴火時の地形変化については,表(1941)による1940年の側噴火地区の地形測量,岡田(1963)による1963年噴火地区の地形測量の結果が公表されている。
(3)三宅島火山の地史と838年神津島の噴火
三宅島は現在もなお噴火を繰り返す成長中の火山であるため,海食崖など一部を除き大規模な露頭に乏しい。このため,前項で述べた多くの研究から明らかにされている火山層序は,たかだか最新の約8000年間程度(縄文時代早期以後)にすぎず,この火山の誕生の年代がどこまでさかのぼるかについては不明である。現在の雄山山頂部には直径1.6kmの新期カルデラがあり,その内に生じた中央火口丘の斜面下部には,後述の9世紀の神津島天上山火山灰が認められる(写真−3(134k)) 。したがって,中央火口丘の形成は古墳時代(A.D.300年〜A.D.700年)にさかのぼるものと考えられる。先述の旧期カルデラの形成を一色(1984c)の見解のとおり約3000年前とすれば,縄文時代晩期(B.C.1000年〜B.C.300年)から弥生時代(B.C.300年〜A.D.300年)にかけての比較的短い期間に,旧期カルデラの内に後カルデラ成層火山が形成され,さらにその山頂部分が陥没して新期カルデラが形成されたことになる。図−2(341k) に今回作成した土地条件図を再編集した地形分類図 を掲載する。
山麓−海岸部における火山層序は,側噴火が繰り返されているために,地区によって層序・層厚ともに大きく異なる。 図−3(307k)は,今回の調査で観察した主要な 露頭の柱状図を示したもので,次に述べる神津島天上山火山灰を鍵層として対比を行ったものである。有史以前の側噴火の噴出物で観察が容易なものとしては,南部ツル根岬西方のココマノコシ遺跡をおおう凝灰角礫岩層 (写真−4(125k)),北側中腹の三の宮−風早付近のスコリア層,北部大久保浜南方の澪ガ平スコリア層などがある。ココマノコシ遺跡(弥生時代中期;後藤ほか,1958)をおおう凝灰角礫岩層は40〜50mの厚さに達し,その分布から古澪・山澪および遺跡西方の台の浜をかこむ爆裂火口から噴出されたものと考えられる。三の宮−風早付近には少なくとも3つのスコリア丘が南北に並び,最も南側のスコリア丘では現在環状林道沿いに大規模にスコリア採取が行われている。この露頭では,図−3のCに示したような神津島天上山火山灰を挟む層序が観察される。このことから,風早付近のスコリア丘の形成は9世紀をあまりさかのぼることのない時代,おそらく西暦紀元以後であることが推定される。澪ガ平スコリア層は,澪ガ平スコリア丘をつくるスコリア層で都道沿いの神着伊豆住宅南側をはじめとする切土面によく露出し「赤ジャリ」と俗称されている。上位には風化火山灰層を介して厚さ約40cmの黒色スコリア層の上方に神津島天上山火山灰がレンズ状に挟まれる。このことから,澪ガ平スコリア丘は9世紀よりかなり古いことがわかる。一色(1960)によれば澪ガ平スコリア層の上に重なる風化火山灰層から縄文時代後期(B.C.1800年〜B .C.1000年)の友地遺跡が発見されている。
三宅島において,全島にわたって鍵層として利用できる島外起源の火山灰としては,約6300年前の鬼界アカホヤ火山灰(K-Ah)(町田・新井, 1978)と9世紀の神津島天上山火山灰(Kz-Tj)(杉原,1984)があげられる。鬼界アカホヤ火山灰は,三宅島では伊豆岬付近( 図−3(307k) のAのさら に下位)および坊田沢遺跡で確認されている(杉原・小田,1990)。しかし,いずれも風化火山灰層中に拡散して含まれ,露頭観察では認めることができない。神津島天上山火山灰は,島内各所で肉眼で認められ,きわめて有効な鍵層として利用することができる。この火山灰は1940年の噴火調査の際に津屋(1940)によってはじめて記載されたもので,その後考古遺物の編年をもとに9世紀ごろのものであることがわかった(一色,1960)。この火山灰は流紋岩質で白色をしており,最大粒径5mm程度の軽石粒を含む。偏光顕微鏡下では引き延ばされた軽石型火山ガラスと斜長石粒を主に,少量の黒雲母片が認められる。層厚は純層では5 cm内外( 写真−3(134k))であるが,山麓〜海岸近くでは,厚さ10〜15cmで風化火山灰 層中にレンズ状に断続するか,軽石粒のみが点々と含まれる産状を呈する。9世紀の伊豆諸島では,838年に神津島で天上山を形成した大噴火が,また886年には新島の南部で向山を形成した大噴火が起こり,いずれも当時の正史に噴火活動の記録が残されている。式根島では両方のテフラがベースサージ堆積物として累積している(一色,1987)が,利島(一色,1978),大島(一色,1984a),および伊豆半島の北部(杉原,1984)では,同時代の白色火山灰が一枚だけ見出されており,これらのテフラが上記どちらの噴火によるものかについては,両火山噴出物の岩石学的性質がきわめてよく似ているために現在まで議論が続いている。たとえば,町田・新井(1992)では,大島に広く分布する白色火山灰を神津島天上山起源と同定しているが,一方,Tiba(1995)によれば,大島産の火山灰の火山ガラス・黒雲母中の金属元素の構成比は,新島向山のテフラにより近似しているという。
本稿では,当時の史料(天上山の噴火は「続日本後紀」,向山の噴火は「扶桑略記」)の記述の検討から,以下のように三宅島の白色火山灰は天上山起源の可能性が高いものと判断した。 図−4(218k)は,「続日本後紀」の降灰記録をまとめた分 布図に,現在野外で認められる各地の白色火山灰層を同一のものと見なして等層厚線を加筆したものである。天上山の噴火は838(承和5)年7月29日に始まり,8月中にかけて関東諸国から遠く播磨(兵庫県南部)までの広域に降灰したことがわかる。この時期は盛夏であるため南日本では一般に偏西風が弱まって上層まで弱い南〜東の風になっていることが多い。降灰の中心とみなされている地域が東海地方から中部地方であることは,このような平均的な風系をよく反映したものと考えられ,また堆積物として残っている地域の層厚分布ともよく対応している。一方,向山の噴火は886(仁和2)年6月29日に始まり,翌30日にかけて安房(千葉県南部)に降灰のあったことがわかっている。この時期は梅雨期にあたり上層では強い西南西の偏西風が吹いているのが一般的であるから,降灰は北東〜東方の限られた方位の海域に集中した可能性が高い。両噴火とも火口近傍では火砕流−ベースサージが繰り返し発生していたことが堆積物から判明している(一色,1982・1987)ので,粉体流の形態で風上側の地域にテフラが到達した可能性もあり,三宅島の白色火山灰を天上山起源と断定することはできない。しかし,今回の土地条件図では以上述べた古記録との整合性から神津島天上山火山灰とみなすこととした。
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伊豆諸島の周辺の海底地形をみると,伊豆半島から小笠原諸島の西之島・硫黄島に至る海底の高まり:七島−硫黄島海嶺が存在し, 図−1(373k)のように,伊豆諸島をつくる諸火山はこの高まりの上にのっていることがわかる。この海嶺を構成する岩石は,海底地質の資料(一色,1984b;湯浅・一色,1987;高田・湯浅,1990 )などから,新第三紀中新世の湯ヶ島層群もしくは白浜層群に対比される火山岩・火砕岩であろうと考えられている。
伊豆諸島の第四紀火山はこの新第三紀層の上に噴出したもので,大島,利島,鵜渡根島,三宅島,御蔵島,八丈島の西山・東山などの中〜大型の複成火山からなる島々と,新島,神津島に代表される単成火山群からなる島列とに大きく分けられる。各火山(群)の海底部分の実態については情報が充分ではないが,諸資料によって概要をまとめると 表−1(135k)のようになる。新島,式根島,神津 島の3島はほとんどすべて流紋岩からなる火砕丘と溶岩ドームで構成されるのに対し,他の島々は玄武岩〜安山岩の成層火山を主体とし,大半が小型のカルデラを伴っている。
三宅島火山は,七島−硫黄島海嶺が南方へ水深を増す肩の部分に形成されており,基底の水深(海嶺の上面の水深)を400mとみなすと,比高約1200m,直径約17kmのかなり大型の成層火山であることがわかる。大島火山や八丈島の両火山は,基底の水深がさらに浅く,またより古い火山の上にのっている(Nakamura,1964;一色,1959)ことのため,火山自体の大きさは三宅島火山よりむしろ小さい。なお,伊豆七島で最大規模の火山は,表−1のように御蔵島火山であるが,この火山は七島−硫黄島海嶺の鞍部にそびえているため,海面下の部分がきわめて大きいことがわかる。
(2)三宅島火山の研究史
三宅島火山の地質は,一色(1960)によって詳しく踏査され,はじめてその全貌が明らかにされた。その後の研究として重要なものとしては,茅原ほか(1973)による旧期カルデラ(推定直径3km以上,西側部分以外は埋没)の存在の指摘,一色(1984c)による考古資料をふまえた過去約5000年間の層序の検討などがあげられる。考古遺跡の編年と火山活動との対応については,国土庁(1987)の報告に従来の成果がまとめられており,海岸付近で発生した大規模な側噴火の噴出物の多くは,その層位とおよその年代が判明している。この他に,1940年・1962年の両噴火については,地震研究所や気象庁(中央気象台)による詳しい調査報告があり(津屋ほか,1940;津屋,1941;本多ほか,1940 ;松田・森本,1962;気象庁地震課ほか,1963など),1983年の噴火については,多くの研究者による調査結果が日本火山学会誌の特集号としてまとめられている。近世以前の噴火記録については大森(1915)によってはじめてまとめられ,一色(1960)により噴出物や地形との対比がなされた。さらに宮崎(1984)は史料の再検討を含め各噴火の特徴や共通性について議論している。なお,各噴火時の地形変化については,表(1941)による1940年の側噴火地区の地形測量,岡田(1963)による1963年噴火地区の地形測量の結果が公表されている。
(3)三宅島火山の地史と838年神津島の噴火
三宅島は現在もなお噴火を繰り返す成長中の火山であるため,海食崖など一部を除き大規模な露頭に乏しい。このため,前項で述べた多くの研究から明らかにされている火山層序は,たかだか最新の約8000年間程度(縄文時代早期以後)にすぎず,この火山の誕生の年代がどこまでさかのぼるかについては不明である。現在の雄山山頂部には直径1.6kmの新期カルデラがあり,その内に生じた中央火口丘の斜面下部には,後述の9世紀の神津島天上山火山灰が認められる(写真−3(134k)) 。したがって,中央火口丘の形成は古墳時代(A.D.300年〜A.D.700年)にさかのぼるものと考えられる。先述の旧期カルデラの形成を一色(1984c)の見解のとおり約3000年前とすれば,縄文時代晩期(B.C.1000年〜B.C.300年)から弥生時代(B.C.300年〜A.D.300年)にかけての比較的短い期間に,旧期カルデラの内に後カルデラ成層火山が形成され,さらにその山頂部分が陥没して新期カルデラが形成されたことになる。図−2(341k) に今回作成した土地条件図を再編集した地形分類図 を掲載する。
山麓−海岸部における火山層序は,側噴火が繰り返されているために,地区によって層序・層厚ともに大きく異なる。 図−3(307k)は,今回の調査で観察した主要な 露頭の柱状図を示したもので,次に述べる神津島天上山火山灰を鍵層として対比を行ったものである。有史以前の側噴火の噴出物で観察が容易なものとしては,南部ツル根岬西方のココマノコシ遺跡をおおう凝灰角礫岩層 (写真−4(125k)),北側中腹の三の宮−風早付近のスコリア層,北部大久保浜南方の澪ガ平スコリア層などがある。ココマノコシ遺跡(弥生時代中期;後藤ほか,1958)をおおう凝灰角礫岩層は40〜50mの厚さに達し,その分布から古澪・山澪および遺跡西方の台の浜をかこむ爆裂火口から噴出されたものと考えられる。三の宮−風早付近には少なくとも3つのスコリア丘が南北に並び,最も南側のスコリア丘では現在環状林道沿いに大規模にスコリア採取が行われている。この露頭では,図−3のCに示したような神津島天上山火山灰を挟む層序が観察される。このことから,風早付近のスコリア丘の形成は9世紀をあまりさかのぼることのない時代,おそらく西暦紀元以後であることが推定される。澪ガ平スコリア層は,澪ガ平スコリア丘をつくるスコリア層で都道沿いの神着伊豆住宅南側をはじめとする切土面によく露出し「赤ジャリ」と俗称されている。上位には風化火山灰層を介して厚さ約40cmの黒色スコリア層の上方に神津島天上山火山灰がレンズ状に挟まれる。このことから,澪ガ平スコリア丘は9世紀よりかなり古いことがわかる。一色(1960)によれば澪ガ平スコリア層の上に重なる風化火山灰層から縄文時代後期(B.C.1800年〜B .C.1000年)の友地遺跡が発見されている。
三宅島において,全島にわたって鍵層として利用できる島外起源の火山灰としては,約6300年前の鬼界アカホヤ火山灰(K-Ah)(町田・新井, 1978)と9世紀の神津島天上山火山灰(Kz-Tj)(杉原,1984)があげられる。鬼界アカホヤ火山灰は,三宅島では伊豆岬付近( 図−3(307k) のAのさら に下位)および坊田沢遺跡で確認されている(杉原・小田,1990)。しかし,いずれも風化火山灰層中に拡散して含まれ,露頭観察では認めることができない。神津島天上山火山灰は,島内各所で肉眼で認められ,きわめて有効な鍵層として利用することができる。この火山灰は1940年の噴火調査の際に津屋(1940)によってはじめて記載されたもので,その後考古遺物の編年をもとに9世紀ごろのものであることがわかった(一色,1960)。この火山灰は流紋岩質で白色をしており,最大粒径5mm程度の軽石粒を含む。偏光顕微鏡下では引き延ばされた軽石型火山ガラスと斜長石粒を主に,少量の黒雲母片が認められる。層厚は純層では5 cm内外( 写真−3(134k))であるが,山麓〜海岸近くでは,厚さ10〜15cmで風化火山灰 層中にレンズ状に断続するか,軽石粒のみが点々と含まれる産状を呈する。9世紀の伊豆諸島では,838年に神津島で天上山を形成した大噴火が,また886年には新島の南部で向山を形成した大噴火が起こり,いずれも当時の正史に噴火活動の記録が残されている。式根島では両方のテフラがベースサージ堆積物として累積している(一色,1987)が,利島(一色,1978),大島(一色,1984a),および伊豆半島の北部(杉原,1984)では,同時代の白色火山灰が一枚だけ見出されており,これらのテフラが上記どちらの噴火によるものかについては,両火山噴出物の岩石学的性質がきわめてよく似ているために現在まで議論が続いている。たとえば,町田・新井(1992)では,大島に広く分布する白色火山灰を神津島天上山起源と同定しているが,一方,Tiba(1995)によれば,大島産の火山灰の火山ガラス・黒雲母中の金属元素の構成比は,新島向山のテフラにより近似しているという。
本稿では,当時の史料(天上山の噴火は「続日本後紀」,向山の噴火は「扶桑略記」)の記述の検討から,以下のように三宅島の白色火山灰は天上山起源の可能性が高いものと判断した。 図−4(218k)は,「続日本後紀」の降灰記録をまとめた分 布図に,現在野外で認められる各地の白色火山灰層を同一のものと見なして等層厚線を加筆したものである。天上山の噴火は838(承和5)年7月29日に始まり,8月中にかけて関東諸国から遠く播磨(兵庫県南部)までの広域に降灰したことがわかる。この時期は盛夏であるため南日本では一般に偏西風が弱まって上層まで弱い南〜東の風になっていることが多い。降灰の中心とみなされている地域が東海地方から中部地方であることは,このような平均的な風系をよく反映したものと考えられ,また堆積物として残っている地域の層厚分布ともよく対応している。一方,向山の噴火は886(仁和2)年6月29日に始まり,翌30日にかけて安房(千葉県南部)に降灰のあったことがわかっている。この時期は梅雨期にあたり上層では強い西南西の偏西風が吹いているのが一般的であるから,降灰は北東〜東方の限られた方位の海域に集中した可能性が高い。両噴火とも火口近傍では火砕流−ベースサージが繰り返し発生していたことが堆積物から判明している(一色,1982・1987)ので,粉体流の形態で風上側の地域にテフラが到達した可能性もあり,三宅島の白色火山灰を天上山起源と断定することはできない。しかし,今回の土地条件図では以上述べた古記録との整合性から神津島天上山火山灰とみなすこととした。
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