測量に関するミニ知識

Ⅲ.地表の凸凹はこんなにおもしろい

地表の凸凹からは、土地の使われ方や、工夫のあとなどが現れます。ここではいくつかの例を紹介します。

 名古屋市緑区から豊明市にまたがる地域に、戦国時代に桶狭間の戦いが行われたところがあります。その戦いに関連する場所の地形的な特徴を見てみましょう。下に示す地図は、航空レーザ測量データにより作成された桶狭間周辺のデジタル標高地形図(図-1)と標準地図(図-2)です。

桶狭間全体_地理院地図
図-1 1:25,000デジタル標高地形図「名古屋」(桶狭間周辺)
桶狭間全体_地理院地図
図-2 地理院地図「標準地図」(桶狭間周辺)

 戦国時代の終わりには、尾張に織田、三河に徳川、駿河に今川、甲斐に武田等々の大名が割拠していました。桶狭間の戦いは、永禄3年(1560年)5月19日、2万5千人の軍を率いて駿河から京の都を目指す今川義元を、若く、かつ奇人といわれていた織田信長が3千人の軍を率いて戦い、勝利したものです。以後、織田信長の名前が広く知られるようになりました。戦場については、豊明市栄町南館[1]と名古屋市緑区有松町桶狭間[2]の二つの説があります。いずれも、丘陵地を河川が浸食した谷間にあることが分かります(図-3~図-7)。

正式20000「大高村」 陰影段彩図 鳥瞰図
図-3 1:20000正式図「大高村」
明治24年測図(桶狭間周辺)
図-4 桶狭間周辺の陰影段彩図
(カシミール3Dを使用)
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図-5 桶狭間周辺の鳥瞰図
(カシミール3D、QGISを使用)
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空中写真1945 空中写真2007  
図-6 地理院地図「写真(1945~1950年)」
(桶狭間周辺)
図-7 地理院地図「写真(最新(2007年~))」
(桶狭間周辺)
 

 この周囲には、桶狭間の戦いのおり、当時19歳だった松平元康(徳川家康)が「兵糧入れ」を行ったことで有名な大高城跡や、今川義元により攻め落とされた鷲津砦や丸根砦等の遺跡が残されています。大高城と丸根砦・鷲津砦は、ともに小高い丘陵の先端に大高川を挟んで築かれていました(図-8~図-11)。

地理院地図 オルソ
図-8 地理院地図「標準地図」
(大高緑地周辺)
図-9 地理院地図「写真(最新(2007年~))」
(大高緑地周辺)
陰影段彩図 鳥瞰図
図-10 大高緑地周辺の陰影段彩図
(カシミール3Dを使用)
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図-11 大高緑地周辺の鳥瞰図
(カシミール3D、QGISを使用)
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東海合戦ワールド(2015)の様子

図-12 東海合戦ワールド(2015)の写真

 日本の歴史を変えた桶狭間の戦いのゆかりの地である大高緑地では、愛知県主催による「東海合戦ワールド」が開催されています(図-12)。


 名古屋港周辺は、江戸時代以降急速に干拓が進みました。デジタル標高地形図(図-13)で、この地区の特徴を見てみましょう。
 はじめに、名古屋港周辺の埋立てと干拓の変遷を紹介します。 図-14に、埋立て・干拓が行われた場所と年代を示します。

デジタル標高地形図「名古屋」(名古屋港周辺)

図-13 1:25,000デジタル標高地形図「名古屋」(名古屋港周辺)


 江戸時代までの海岸線は現在よりも陸側にあり、熱田台地の南部にはかつて年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれていた浅い海が広がっていました。このような地形は、干拓による造成が容易なため、江戸時代には干拓が行われました。

年魚市潟(あゆちがた)
 「桜田(さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しおひ)にけらし鶴鳴き渡る」(万葉集)巻三・高市連黒人(たけちのむらじくろひと)にも詠まれている、年魚市潟は、名古屋市熱田区から南区にかけて広がっていた入海。
 この「年魚市潟」の「あゆち」がもととなり県名の「あいち」になったといわれています。また、「熱田」の地名も、「あゆち」がもととなったとも言われています。
 

 この時代の干拓地は、標高0m以下の土地であり、図-13の濃い青色の部分に当たります。また、河道に挟まれた部分や堤防に囲まれた干拓地は、浅い盆状を示す輪中型を示し、地下水位が浅く湿地状になっています。
 この地域での干拓の範囲は旧東海道(百曲街道)以南、現在の近鉄線以南の地域になります。
 明治時代以降には、工場用地のための埋立てが始められました。図-13の南部の薄い緑色の地区は干拓地より標高が高く、1900年以降、特定重要港湾名古屋港の一部として大規模な埋立てが進められた所です。現在は、港湾施設、製鉄所や火力発電所の続く工業地帯となっています。

 図-14のH、I など濃い緑色(標高4m以上)の地区の埋立ては、伊勢湾台風(1959年(昭和34年))以降のもので、台風による水害の教訓から、内陸低地を守るために作られています。

埋立地・干拓地の変遷 凡例
図-14 埋立て・干拓の行われた年代  

名古屋港の歴史

 図-13の北東に見える河川の合流部あたりが、名古屋港の発祥の地といえる熱田湊です。水深1~2mの遠浅な熱田湊に大型船の入港できる名古屋港が開港したのは1907年(明治40年)のことでした。その後、港湾施設は沖合へと整備され続け、現在では総貨物取扱量(2億762万トン(平成26年度))が、日本第1位の港となっています(図-15~図-23)。

50000明治40年「熱田町」 50000大正9年「名古屋南部」 50000昭和13年「名古屋南部」
図-15 5万分1地形図「熱田町」
明治40年修正(名古屋港周辺)
 
図-16 5万分1地形図「名古屋南部」
大正9年修正(名古屋港周辺)
 
図-17 5万分1地形図「名古屋南部」
昭和13年四修(名古屋港周辺)
50000昭和22年「名古屋南部」 50000昭和47年「名古屋南部」 地理院地図(2015年8月)
図-18 5万分1地形図「名古屋南部」
昭和22年五修(名古屋港周辺)
  図-19 5万分1地形図「名古屋南部」
昭和47年修正(名古屋港周辺)
  図-20 地理院地図「標準地図」
(名古屋港周辺)
空中写真(1945年~1950年) 空中写真(1974年~1978年) 空中写真(2007年~)
図-21 地理院地図「写真(1945~1950年)」
(名古屋港周辺)
  図-22 地理院地図「写真(1974~1978年)」
(名古屋港周辺)
  図-23 地理院地図「写真(最新(2007年~))」
(名古屋港周辺)

 金山駅は、細長く延びる熱田台地(図-24の黄色い部分、図-26のオレンジの部分)の南寄りに台地を横断する谷間に位置しています(参考:図-25)。

デジタル標高地形図「名古屋」(金山駅周辺)

図-24 1:25,000デジタル標高地形図「名古屋」(金山駅周辺)


地理院地図 数値地図25000(土地条件)数値地図25000(土地条件)金山駅周辺
図-25 地理院地図「標準地図」(金山駅周辺) 図-26 地理院地図「数値地図25000(土地条件)」(金山駅周辺)

 図-27は、現在の「金山駅」の西方(図-24の[1]地点)から金山駅方向を撮影したものです。周囲の土地より一段低い谷間に鉄道が作られているのがわかります(図-27~図-29)。


金山駅の切り通し
鳥瞰図(北西上空) 鳥瞰図(南東上空)
図-27 金山駅の切り通しの写真
[1]地点より矢印方向を撮影
図-28 金山駅の切り通しの鳥瞰図
金山駅北西上空より(QGISを使用)
図-29 金山駅の切り通しの鳥瞰図
金山駅南東上空より(QGISを使用)

金山駅周辺の変遷

 東海道線(新橋~神戸)が開通したのは1889年(明治22年)7月のことで(図-30)、現在の金山駅周辺は、台地への上り坂を避けて、切通しで台地を抜けています。このとき、金山駅はまだありませんでした。
 1900年(明治33年)に中央線の名古屋~多治見間が開通しました(図-31)。当時、熱田方面から中央線方面に貨物輸送する場合は、いったん名古屋駅まで行き、そこから中央線に載せ変えていました。その後、1918年(大正7年)には東海道線と中央線を結ぶ貨物路線が開通しました(図-32)。この路線は、1930年(昭和5年)に廃止されています。
 金山駅付近に駅ができたのは、1944年(昭和19年)の名鉄「金山駅」が最初で、現在の金山駅から南東へ300m程離れた場所に作られ、翌年の1945年(昭和20年)には、駅名が「金山橋駅」に改称されました(図-33、図-36)。その後、1963年(昭和38年)に中央線「金山駅」が現在の位置に作られ(図-34、図-37)、金山駅総合化計画に基づき1989年(平成元年)に現在の金山駅が完成しました(図-35、図-38)。

正式20000_M31 50000地形図明治40年 25000地形図_大正9年
図-30 1:20,000正式図「名古屋」「熱田」
「下之一色村」明治24年測図
「枇杷嶋」明治31年修正(金山駅周辺)
   図-31 5万分1地形図「熱田町」
明治40年修正(金山駅周辺)
      図-32 5万分1地形図「名古屋南部」
大正9年修正(金山駅周辺)
地理院地図 25000昭和49年 25000昭和22年
図-33 2万5千分1地形図「名古屋南部」
昭和22年修正(金山駅周辺)
図-34 2万5千分1地形図「名古屋南部」
昭和49年修正(金山駅周辺)
  
図-35 地理院地図「標準地図」(金山駅周辺)      
オルソ2007年~ オルソ1974年 オルソ1945年
図-36 地理院地図「写真
(1945~50年)」(金山駅周辺)
図-37 地理院地図「写真
(1974~78年)」(金山駅周辺)
  
図-38 地理院地図「写真(最新(2007年~))」(金山駅周辺)      

 矢田川は昔、天井川でした。図-39の黄色い部分(川中町周辺)から天井川だったことが分かります。地表の凸凹には、その名残が見られます。
 図の中央を東西に流れる2本の河川は、北が名古屋市街の北と西を取り巻く庄内川で、南から庄内川に合流するのは矢田川です。

地図に浮かび上がる旧河道

デジタル標高地形図「名古屋」(川中町周辺)

図-39 1:25,000デジタル標高地形図「名古屋」(川中町付近)


 矢田川の南に幅約250mの黄色い帯状に微高地(図-39「川中町周辺」)が浮かんで見えます。これは過去の河道であり、矢田川が天井川※1であったことの痕跡です。矢田川流域では、江戸時代には既に形成されていた一大窯業地域において、一説によると陶土の採掘や燃料用の木材伐採などを原因として、洪水やそれに伴う土砂の流出が頻発し、下流の堤外地※2にそれらを堆積させて、天井川となったのです。

※1天井川
 堤防内等で砂礫の堆積の進行により、河床面(川の底の地盤)が周辺の平野より高くなった河川のことを言います。
※2堤外地
 堤防にはさまれた水の流れている側、河川と河原のある側を指します。

矢田川の付替え (川中町周辺)

 現在の矢田川の河道は、北区川中町付近で庄内川とほぼ平行に流れ、庄内川橋付近で庄内川に合流しています(図-40、図-41、図-43)。かつての矢田川は、三階橋(名古屋市北区)付近でまっすぐ西に向かい、庄内川橋付近で庄内川に合流していました(図-42)。

地理院地図 土地条件図
図-40 地理院地図「標準地図数」(川中町周辺) 図-41 地理院地図「数値地図25000(土地条件)」
(川中町周辺)
2万5千分1地形図大正9年 鳥瞰図3D
図-42 2万5千分1地形図「名古屋北部」大正9年測図
(川中町周辺)
図-43 川中町周辺の鳥瞰図(カシミール3D・QGISを使用)
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