越の国「地理・測量」の偉人たち

越の国「地理・測量」の偉人たち

吉田 東伍(よしだ とうご)-日本歴史地理学のパイオニア

1907年(明治40年)10月、上野の精養軒で大隈重信、前島密、坪井九馬三など、政府、民間から150余名が出席しての大パーティが開催されました。このパーティの主役は当時、早稲田大学文学部史学科の教壇に立っていた吉田東伍であり、パーティの名称は「大日本地名辞書完成披露祝賀会」でした。

吉田東伍は、1864年(元治1)、越後国保田町(現在の新潟県安田町)に生まれました。子どもの頃から読書が好きで、父母から「何よりも人間は衣食が先だ」と注意されたほどでした。
17才の頃には安田の歴史や地理の研究にのりだし、「安田志料」と題する郷土史の執筆にとりかかっています。

1895年(明治28年)、この頃すでに、歴史家として名前を知られるようになっていた東伍は、「日本には統一した地誌がない」ことに気付き、自分の将来を賭けた大仕事として、「大日本地名辞書」の編纂を決意します。

それから13年間、粉骨砕身の研究を続けて完成した「大日本地名辞書」は、文字数1,200万字の大巨編となり、1世紀を経た現在でも版を重ねています。
(資料提供:吉田東伍 高橋義彦記念安田歴史地理研究会)

書斎で執筆中の東伍(1908年頃)

帙(ちつ)に納められた「大日本地名辞書」の原稿(早稲田大学図書館蔵)

石黒 信由(いしぐろ のぶよし)-加賀藩新田才許・測量方

石黒信由は、宝暦10年(1760)に越中国高木村(現在の富山県射水市高木)の豪農の家に生まれました。

富山の中田高寛に師事して関流和算の第六伝となり、加賀藩の命を受け新田開発・用水事業のための測量や水準測量の他、多くの地図を作成しました。

信由が本格的に加越能三州(富山県・石川県)の測量に従事したのは、文政2年(1819)、信由が60歳になってからです。
約3年半かけて加越能三州の全体にわたって測量し、郡図、三州図を完成させてます。

高樹文庫に残されている地図類は1,249点にも及びますが、そのほとんどが信由の手によるものです。

実測図が多く縮尺も明記されており、極めて精度の高いことが一見してわかります。江戸時代を代表する伊能忠敬の日本地区に匹敵する地図といえます。

信由の測量と地図作成には和算家として素養が生かされただけでなく、三角関数などの西洋数学にも通じていたからこそ高精度の地図ができあがったのです。
(資料提供:射水市教育委員会)

右上:「石黒信由像」 中央:加越能三州郡分略絵図(文政8年4月石黒信由作図) 左下:石黒信由が測量に用いた強盗式磁石台(がんどうしきじしゃくだい)

柴田 収蔵(しばた しゅうぞう)-佐渡が生んだ異色の地理学者

柴田収蔵は、佐渡(さど)の四十物師(あいものし:魚のひものなどをつくることを仕事とする)で、名主でもあった長五郎の子として生まれました。

彼は、小さいときから読書が好きで、書や図書を写すことをこのんでしたといいます。
16歳の時から佐渡の石井夏海に絵などを学んでいましたが、絵図師量や地図作成も学んでふるさとに帰りました。

佐渡では、医業(いぎょう:いしゃ)を開いたものの、ここでも地理や地図に対する魅力(みりょく)に勝てず、地図の作成を始めます。
そして、自分で作った地球図を持って、江戸に出て、古賀謹一郎という先生につき、今度こそ念願の?地理学の指導をうけました。

先生が幕府洋学所頭取(ばくふようがくしょとうどり)につくと、ここに採用され、地図作成にあたりました。

洋学所では、最新の情報が入った多くの地図を作成しましたが、長年の大酒がたたったのか40歳で亡くなりました。
幕末に佐渡が生んだ異色の地理学者です。

柴田収蔵日記2の表紙(東洋文庫より)

大森 房吉(おおもり ふさきち)-日本の地震学のパイオニア

大森房吉は、1868(明治元)年、福井城下新屋敷(現福井県福井市手寄)に福井藩勘定方役人の子として生まれました。
大森は、1890(明治23)年に、帝国大学(現東京大学)の物理学科を卒業後、大学院で気象学と地震学を専攻しました。その後ドイツやイタリアに留学したのち、帝国大学の地震学教授となり、多くの地震を調査・研究し、二百編以上の研究論文を発表しました。
主な研究成果は、大森式地震計を考え出したことと、縦揺れの時間などから震源までの距離を計算するための式を考えたことなどです。このほか、多くの研究者を指導したことから「地震学の父」とも呼ばれ、日本の地震学の基礎を作りました。
大森は、それまでの地震の発生状況から関東地域での地震の発生を予想していました。1923(大正12)年に、汎太平洋学術会議に出席するためオーストラリアに出発しました。そしてリバビュー天文台で、見学していた最新式の地震計の針が大きく振れたことで、関東大震災の発生を知り、急遽日本に帰ることになりました。しかし、以前から患っていた病気が悪化し、船の中で倒れ、帰国後すぐに病院に入院しましたが1ヶ月後55年の生涯を閉じました。
地震の研究に生涯を捧げ、最後まで震災の復興を案じながら亡くなった大森の熱意や業績は、現在の日本の地震学へと受け継がれています。

 大森房吉像
                                手寄公園(福井県福井市手寄2丁目1)