文字サイズ変更

  • 標準
  • 拡大
地理院ホーム  > 火山土地条件図「三宅島」について(2/2)  

火山土地条件図「三宅島」について(2/2)

    前ページ

3.地形分類と噴火編年に関する新知見と問題点

(1)山頂カルデラの地形と溶岩流の認定

 雄山の山頂部分には,前項で述べたように直径約1.6kmの新期カルデラがある。このカルデラの中央には比高約100mの中央火口丘があり,カルデラの外輪山の南半部分は中央火口丘の噴出物で埋積され北半部分のみが残存している( 写真-5(200k)) 。外輪山と中央火口丘との間には八丁平と称される火口原があり,雨後にはその中央の最低所にひょうたん形の小さな池が生じる。 図-5(413k)は新期カルデラの中・西部を等高線間隔2mの地形図で示したものである。外輪山上には2つの三等三角点があり,東側の三角点伊豆が標高813.7m,西側の三角点伊ヶ谷は標高798.2m である。2.5万分の1地形図「三宅島」では本島の最高点は三角点伊豆の813.7m のように読図できるが,大縮尺地形図で確認すると最も高いのは両三角点の中間にある外輪山上のピークで,1:5,000火山基本図「三宅島4)」によれば818.0mとなっている。
 中央火口丘内の地形は複雑で,さらに三重の構造をもっている。火口丘の中央には直径500~600mの浅い火口があり,その内部の西寄りには一段深い火口(津屋ほか(1940)の大穴(孔)火口)がある。この火口の東壁は約20mの垂直な崖をなしている。この大穴火口の西半を埋め立てるかたちで,1940年の山頂噴火で形成された比高約100m,直径約300mのスコリア丘がある。このスコリア丘の形状は噴火中の火口の移動によって単純な円錐形ではなく,現在も3~4個の火口が認められる。土地条件図上では一部簡略化してそれらの概形を示した。なお,「雄山サウナ」で知られるスコリア丘北西側の1940年山頂溶岩流は,分布範囲80m× 150mのごく小規模なもので,厚さも2~4mと薄い。
 中央火口丘の西側下部からは大規模な溶岩流が噴出している。1949年撮影の空中写真によれば,この溶岩流は西方と南西方の2手に分かれて新期カルデラ外輪山を越え,村営牧場方向へ流下しているのが,明らかに判読される。雄山登山道終点から八丁平に至る遊歩道沿いでは,1940年をはじめとする新しい時代のスコリア・火山弾によって溶岩流表面は完全におおわれているが,八丁平に面する溶岩流北縁は比高5~6mの段差を有し,きわめて明瞭である。溶岩原上には, 図 -5(413k)に示したように2本のリッジが認められる。その延びの方向から,火口原内 にいったん滞留した溶岩が,一部は外輪山西縁を乗り越えて西方へ溢流したものの最終的には大部分が南西方へ流下した模様が歴然としている。この溶岩流はこれまでの地質図(一色,1960;国土庁,1987)には図示されていないもので,南西方へは200~400mにわたって両側の溶岩堤防が確認できる。しかし,標高600m 付近以下では,植生と新しい時期の側噴火の噴出物とにおおわれて,追跡することができない。

(2)村営牧場周辺の有史時代の溶岩流

 1983年の噴火で,雄山の南西山腹桑木平の海抜500m付近以下の一帯は,スコリアと溶岩流とで埋積された。村営牧場内では,数10cmの厚さで堆積した降下スコリアを除去して元の牧草地にもどす作業がなされた( 写真-6(75k))。史料によれば ,1643(寛永20)年・1712(正徳元)年・1763(宝暦13)年・1835(天保6)年の近世の4回の噴火が西~南西山腹で発生しており,詳しい記録のない1085(応徳2)年・1469(文明元)年の噴火も火山層序から西側山腹の側噴火であったと考えられている(一色,1984c)。1983年噴火以前の空中写真,特に1947・1949年に撮影された空中写真を判読すると,桑木平から二男山にかけてきわめて多数の側火口と新しい溶岩流の分布が認められる。これらのうちのいくつかは,史料の噴火記録との照合によって年代が特定できるが,噴出年代が決められないものやその後の噴出物や植生のために不明瞭になったものも多い。
 今回の調査では,1983年噴火以前の空中写真によってこの地区の火山地形を詳しく分類し,それらと史料との対比を行った。 図-6(355k)はこれらの作業に基づいて まとめたもので,桑木平からその南方にかけては,3列の南-北ないし北北東-南南西方向の火口列が認められる。これらの火口列のうち,西側の火口列(図-6の矢印1)は「三宅島祥異」の記述から1763年8月の噴火活動によって形成されたものであることは,ほぼまちがいない。穴二ツスコリア丘の南側に並んだ10 個以上の火口群から流出した溶岩流は,合流して阿古若宮神社東方まで流下した。この溶岩流地帯は耕地として不適なため放置され,現在では既にシイ・タブなどからなる極相林になっている。これらの火口の南方の粟辺側斜面に生じた火口からは,粟辺の浜に達する別の溶岩流が流出した。火口は4個以上認められ,村道沿いの火口が最も大きい。この火口からはスコリア投出のみが生じ,その南側の海抜190m付近に生じた火口から主に溶岩が流出したように判読できる。この溶岩流は,海岸近くの一部を除き1983年の溶岩流に埋没した。
 東側の火口列(図-6の矢印2)では,二男山の南斜面海抜290~400m付近に生じた6個以上の火口から溶岩流出が起こっている。これらは合流して南方へ流れ下って龍根の浜の西方で海岸に達しているように判読できる。この火口列北端の現在の七島展望台北側に位置する火口からは,北方へ溶岩が流下しているが,やや不明瞭で末端の位置は特定しにくい。
 中央の火口列(図-6の矢印3)は二男山の西肩付近に明瞭な割れ目火口を形成しており,海抜420m付近の火口からは長さ300mたらずの小規模な溶岩流が流出している。一色(1984c)の見解のように,この火口列はさらに南方へ続いて337 mピークの西側のやや大きい火口を経て新澪池付近へ連なるように見えるが,判然とはしない。337mピーク西の火口からは南西方へ溶岩が流出しているようにも判読できるが,植生のため明確ではない。
 1983年噴出物の堆積しなかった村営牧場北半部分については,現地踏査によって写真判読結果の補完を行った。この地区では,1835年に溶岩流出を伴う噴火が起きている。「三宅島御神火之記」によると,噴火後の検分によって,火口が「笠路山元中山観音の旧地」および「富賀平辺山八合目」に形成され,それぞれ「伊谷村長根」および「坪田道」に達する溶岩流を生じたことが確認されている。 1835年噴火の溶岩流について,一色(1960)は当時の火口を確認することができなかったとしているが,現在の笠地観音の南東側に達している最も新しいと思われる溶岩流が,上述の旧伊ヶ谷村長根に達した溶岩に対比されるものと考えられる。また,この南方の1983年火口列の北東端のすぐ西側の高まりから,北方と南方とに溶岩が流下しているのが写真判読できる。北側の溶岩流は西へ向きを変えて環状林道わきに達し( 写真-7(72k) ),南側の溶岩流は,一部がすでにあった(よ り旧期の?)割れ目火口内を埋め立てて西方へ流下している。現地で観察すると,これらの溶岩流は上面に全く降下火砕物をのせておらず,周囲より0.5~2m程度高く,牧草地にならないために牧場内の林地として残されている。これらの溶岩流は,「三宅島御神火之記」に記された「富賀平辺山」の山頂近くから流出した溶岩に対比される可能性があると思われるが,考証が不充分であるため,土地条件図では「?」付きで年代を示してある。
 上述の溶岩流末端下の林道法面の層序( 図-3(307k)のB)を見ると,下部に厚い溶岩 があり,その上を2m近い厚さのテフラ累層がおおっているが,神津島天上山火山灰は認められない。この厚い溶岩は林道西側の牧草地内のところどころに露出し,かなり広く分布する。空中写真判読ではいくつかのフローユニットに再分できるように見える。一色(1984c)に従い1085年溶岩としたが,噴出地点・分布範囲とも不明確であり,年代の異なる複数の溶岩流が含まれる可能性がある。
 旧阿古集落および錆ヶ浜方面へ流下した1643年溶岩流については,1983年溶岩流におおわれていない阿古漁港東方の部分をやや詳しく踏査して分布を確認したほかは,1949年撮影の空中写真によって分布を推定した。北方の1469年とされる溶岩についても詳細は不明であり,特に旧期カルデラ内の分布については正確さを欠く可能性が高い。

(3)1940年・1962年噴火地帯の地形区分について

 1940年と1962年の噴火活動では,島の北東側の神着地区と坪田地区との境界の沢付近からサタドー岬北方にかけて,ほぼ同一の地帯で側噴火が発生した。神着・坪田境界の谷間の海抜250~450mにかけての火口列は,両噴火でほとんど重なっており,谷を流下して赤場暁に至った溶岩流の流路は完全に重なっている( 写 真-8(84k))。両噴火の溶岩は一部を除きいずれも斑晶鉱物に乏しい玄武岩で,肉眼では区別できない。また,噴火地帯では現在も強風によって細粒スコリア・火山灰の再移動が続いている部分があり,現地での両噴火による地形の区別は困難である。
 研究史の項で述べたように,両噴火の後にいずれも詳しい調査がなされているので,今回はこれらの資料と新旧の空中写真の判読とによって両噴火による噴出物の分布をそれぞれ1:5000地形図上に図示した。さらに,両図を重ねあわせて1 965年撮影の空中写真を参照しながら,1962年噴出物におおわれていない1940年溶岩流・スコリア丘の範囲を特定した。1940年噴火の噴出物の分布については,津屋(1941)が踏査の結果を図にまとめているので,これらを編集の上縮尺を合わせて1:5000火山基本図上に移写した。津屋の作成した図には火口・溶岩流の位置に系統的なずれのあることがわかったので,1949年の空中写真によって補正した。1962年の噴出物の分布については,松田・森本(1962)の分布図を岡田(19 63)の実測図と1965年の空中写真を参照しながら火山基本図上に移写した。
 作業の結果,1940年噴出物の現在の分布域は,ひょうたん山スコリア丘の山体と海抜100~190m付近のスコリア・溶岩流(津屋(1941)の「ヨリダイ沢溶岩流」)を除き,きわめてわずかであることがわかった。神着・坪田境界の谷では,溶岩流の厚さが最も厚かった溶岩流下当初に流路両側の谷壁に溶岩がへばりついて「溶岩の壁」が形成されており(松田・森本,1962),この特に高い部分が1962 年の溶岩堤防の外側に残されている。この状況は火の山峠の南側で典型的に観察される。

(4)マグマ水蒸気爆発による地形の区分

 既に述べたように,三宅島ではこれまでしばしばマグマ水蒸気爆発が発生している。大規模な爆裂火口は,後々まで長く地形として残存するので容易に識別できるが,それらの形成時に飛散した火砕物(凝灰角礫岩~火山礫凝灰岩)によってその周辺につくられる台地状の地形(土地条件図で「凝灰岩リング」としたもの)の範囲を区分することは,実際はかなり困難である。たとえば,東海岸にある三池爆裂火口の噴出物を追跡すると,火口南縁では厚さ数10mに達する凝灰角礫岩層が認められ,この堆積物がつくる台地状の高まりは南方へ低下しながら三池港入口の海岸付近まで連続している。三池港の海岸では,ベースサージとして北方から移動・堆積したようすが観察され( 写真-9(99k) ),含まれる類質~本質火 山岩礫の大きさは火口南縁にくらべかなり小さくなっている。さらにその南方約 370mの道路法面では,下位の溶岩の上面の凹凸を埋めて細粒のベースサージ堆積物が堆積している( 写真-10(95k))が,厚さは5m内外となり,もはや独自の地形とし て区別することは難しい。このほか,地形としては明瞭ではないが,大規模なマグマ水蒸気爆発のあったことを示す同様の堆積物は,海岸近くだけでも三宅島空港の南海岸(図-3 (307k)のE),錆ヶ浜海岸北部,伊豆南端部の平山沢右岸の都道法面など各所に見られる。
 有史時代のマグマ水蒸気爆発の例としては,1763年噴火の際の新澪池の形成が代表的なものである。1983年噴火の際には,新澪池西側で再びマグマ水蒸気爆発が発生したが,ここでは途中から噴火のタイプがスコリア噴出に変化し(荒牧・早川,1984;遠藤ほか,1984),最終的には新澪池の北西側にスコリア丘が形成された。このマグマ水蒸気爆発による噴出物は,新しい地形をつくるのにほとんど寄与していない。新澪池跡の南西岸では,1712年とされる溶岩の上に1763年に噴出した厚い凝灰角礫岩層があり,その上を1983年噴火の際に投出された類質火山岩塊がおおっているが,これらの岩塊は火口縁においても地表に散在している程度で,地層として堆積しているとは言えない( 写真-11(100k) )。すなわち,この 付近では地形は1763年当時のままであると言える。同様の事情は新鼻沖に形成された凝灰岩リングの噴出物についても言え,現在海食をまぬがれて残っている旧海岸線以北の部分では,元の地形を多少かさ上げしている程度と判断され,旧海岸線上に形成されたスコリア丘(R火口)の地形の方が顕著である( 写真-12(99k))。以上のように,土地条件図に示した1983年のマグマ水蒸気爆発による地形は,統一的な分類の基準からすれば無視されるべき程度のものであるが,現在も人目をひく特異な景観であることから,特に区別して図示したものである。

4.おわりに

 以上,火山土地条件図「三宅島」の作成の過程で明らかになった事実・注意すべき問題点などについて 論じた。
 最初に述べたように,三宅島のマグマは玄武岩質であるために薄く拡がりやすく,溶岩堤防・表面模様などの比高も安山岩質の火山よりもはるかに小さい( 写 真-13(100k))。したがって,山中の谷底を流下したり,後の噴出物に覆われたりしているものは,比較的新しい時代のものでも見落とされる可能性が高い。たとえば,伊豆地区の姉川中流域から大久保港付近の海岸にかけては,姉ガ潟溶岩(一色,1960)の分布が知られている。この溶岩流は,考古遺物から4世紀末から7世紀以後とされ,三宅島北西部では最も新しい溶岩である。空中写真判読によれば,この溶岩流は海抜120m付近以下では幅が拡がり,縁部の段差も明瞭に地形に現れているが,これよりも山側では地形として全く認知できない。しかし,海抜150 m付近に建設中の姉川ダムの河谷を横断するトレンチ壁面には,谷底を流下したこの溶岩のレンズ状の断面が露出しており( 写真-14(99k)),これよりも山側に噴出地点 があることは確実である。このように噴出地点まで追跡できなかった溶岩流,また末端の位置が不明の溶岩流については,土地条件図上では地形界線をはぶき塗色をそこで中断しておいた。
 このような問題は,他の火山の調査でも生じる可能性がある。火山土地条件図では,火山防災の基礎データとして活動履歴を明確に表示する必要があると考えられる。したがって,新しい時代の主要な噴出物の分布が空中写真で判読できない場合は,地質調査によってこれを確認する必要も生じるであろう。限られた期間での現地調査では,事前に充分な予察を行い問題箇所を明らかにした上で,効率的に踏査を実施する必要があろう。
 本土地条件図作成の過程で,多くの方々と関係機関から御教示・御協力をいただいた。元地質調査所の一色直記博士には,計画段階において現地調査の御助言をいただき,また素図作成の際に校閲していただいた。三宅村役場・東京都三宅支庁・東京都総務局行政部・気象庁三宅島測候所からは,種々資料の提供をいただいた。表紙および解説中に使用した写真は,東京都島しょ振興公社・防衛庁・毎日新聞社・国際航業株式会社から提供していただいた。裏表紙の位置図の海底地形は海上保安庁水路部の海底地形図によった。仲介の労をとっていただいた三宅村総務課の前沢保伯氏,東京都島しょ振興公社の伊勢崎孝久氏(当時),防衛庁海上幕僚監部監理部広報室の田村雅道氏,毎日新聞社編集局情報調査部の松本良敬氏,海上保安庁水路部監理課の丹羽哲氏には,特にたいへんお世話になった。末筆ながら,以上の方々に心からお礼申し上げる。

引 用 文 献

荒牧重雄・早川由紀夫(1984):1983年10月3・4日三宅島噴火の経過と噴火様式.火山(第2集),29,S24-S35.
磯部一洋(1985):伊豆三宅島における噴火後の海岸の変化と海浜堆積物.地質調査所月報,36,1-18.
一色直記(1959):5万分の1地質図幅「八丈島」および同説明書.地質調査所,58p.
一色直記(1960):5万分の1地質図幅「三宅島」および同説明書.地質調査所,85p.
一色直記(1978):利島地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),地質調査所,34p.
一色直記(1980):御蔵島・藺灘波島及び銭洲地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),
         地質調査所,35p.
一色直記(1982):神津島地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),地質調査所,75p.
一色直記(1984a):大島地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),地質調査所,133p.
一色直記(1984b):20万分の1地質図幅「三宅島」.地質調査所.
一色直記(1984c):三宅島火山の過去3000年間の活動.火山噴火予知連絡会報,No. 29,1-3.
一色直記(1987):新島地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),地質調査所,85p.
宇佐美龍夫(1983):新島・三宅島における地震の古文書.東京都の島しょ地域における災害に関す
         る総合調査報告,東京都防災会議.
遠藤邦彦・宮地直道・千葉達朗・隅田まり・坂爪一哉(1984):1983年三宅島噴火の火山灰層位学的研究.
         火山(第2集),29,S184-S207.
大森房吉(1915):三宅島噴火記事.震災予防調査会報告,79,57-62.
岡田 惇(1963):1962年(昭和37年)三宅島噴火にともなう地形変動.地震研究所彙報,41,447-457.
表俊一郎(1941):三宅島新寄生火山および溶岩流の地形再測量.地震,13,197-206.
活断層研究会(1991):『新編日本の活断層-分布図と資料』.東京大学出版会,448p.
気象庁地震課・東京管区気象台調査課・三宅島測候所(1963):1962年の三宅島の噴火(1))
         (噴火活動状況).験震時報,28(別冊),1-12.
国土庁土地局国土調査課(1987):1:25,000土地保全図三宅島地区および同報告書.国土庁,109p.
後藤守一・芹沢長介・大塚初重・金子浩昌・麻生 優・梅沢重昭(1958):三宅・御蔵両島に於ける考古
         学的研究.東京都文化財調査報告書6,東京都教育委員会.
菅香世子(1994):八丈島東山火山の活動史.火山(第2集),39,13-24.
杉原重夫(1984):丹那断層名賀地区トレンチにおける示標テフラの岩石記載的特性と噴出年代.
         地球,57,171-177.
杉原重夫・小田静夫(1990):伊豆諸島の八丈島・三宅島における鬼界-アカホヤ火山灰の発見と
         縄文遺跡編年上の意義.駿台史学,No. 79,35-46.
高田 亮・湯浅真人(1990):20万分の1地質図幅「八丈島」.地質調査所.
高田 亮・村上文敏・湯浅真人(1994):青ヶ島火山および伊豆諸島南方海底火山地質図.
         火山地質図7,地質調査所,8p.
Tiba, T.(1995):Source of the Rhyolitic Ash Layer in Basaltic Ash Layers on Izu-Oshima.
         Bull.Natn. Sci. Mus., Ser.C,21,11-18・
茅原一也・青木 滋・八木健三・新藤静夫(1973・:三宅島火山に関する新知見(演旨・.火山
        (第2集),18,102-103・
津久井雅志・森泉美穂子・鈴木将志(1991・:八丈島東山火山の最近22000年間の噴火史.火山
        (第2集),36,345-356・
津屋弘逵・萩原尊礼・実川 顕・鈴木正治・永田 武・水上 武・高橋竜太郎・平能金太郎
        (1940:昭和15年7月三宅島噴火調査概報.地震,12,435-533・
津屋弘逵(1941):昭和15年7月三宅島噴火再調査報告(I)・(II).地震,13,1-21,37-48・
東京都島しょ振興公社(1993・:「東京の島・VOL1」.東京都島しょ振興公社,29p.
Nakamura, K.(1964):Volcano-stratigraphic study of Oshima Volcano, Izu.
        Bull. Earthq. Res. Inst., 42,649-728・
羽鳥徳太郎(1993):伊豆諸島の歴史津波と波高分布.歴史地震,No. 9,117-123.
本田 彪・門脇鬨郎・正務 章(1940):昭和15年7~8月伊豆三宅島噴火調査報告.験震時報,11,277-308.
町田 洋・新井房夫(1978):南九州鬼界カルデラから噴出した広域テフラ-アカホヤ火山灰.
        第四紀研究 ,17,143-163.
町田 洋・新井房夫(1992):「火山灰アトラス-日本列島とその周辺」.東京大学出版会.276p.
松田時彦・森本良平(1962):三宅島の噴火-1962年8月.科学,32,578-585.
三宅島ガイドブック作成編集委員会(1993):三宅島ネイチャーガイドブック・火山篇.三宅村,72p.
三宅村(1993):村勢要覧・1993.三宅村,21p.
宮崎 務(1984):歴史時代における三宅島噴火の特徴.火山(第2集),29,S1-S15.
湯浅真人・一色直記(1987):20万分の1地質図幅「御蔵島」.地質調査所.

   84集 目次に戻る

ページトップへ