測量・地図ミニ人物伝:高橋至時

「測量・地図ミニ人物伝」

高橋至時
(1764-1804)

画像:高橋至時


 伊能忠敬に測量を教えた、高橋至時(よしとき)は大阪の生まれで、作左衛門とも呼ばれていました。天文学で知られていた麻田剛立(あさだごうりゅう)の塾(じゅく)で学び、1795年に間重富(はざましげとみ)と江戸の暦局(れききょく)に出て、天文方となり、暦(こよみ)を作る仕事をしました。


 至時は、暦ができたあとも江戸に残って、天文学についての研究を続け、特に伊能忠敬と相談して、地球の大きさを知るための測量を行うことにしました。その結果作成されたのが、日本で最初の近代的な日本全図です。忠敬が地方で測量を行うときに、いろいろと助けたのが至時です。


 また、忠敬の測量が無事に終わるように、幕府となんども話し合いをしました。一番の功績(こうせき)は、フランスのすぐれた研究書を翻訳(ほんやく)したことといわれています。


 至時は、この研究書の仕事が原因で、41歳の若さで亡くなったのですが、上野にある至時の墓のとなりには、伊能忠敬の墓もありますが、これは忠敬の遺言(ゆいごん)によるものです。忠敬が、死んでからも20歳も若い先生の近くにいたいという気持ちは、先生がとても素晴らしい人であったからでしょう。